開港地横浜の港崎遊廓 ― 2011/01/29 07:07
先月の「等々力短信」1018号「江戸文化の仕掛け人」に、「蔦重」蔦谷重三 郎が『吉原細見』によって版元として頭角を現したことを書いたら、福澤諭吉 協会で知り合った古文書をお読みになる方が、面白いものを送って下さった。 万延元(1860)年の横浜、港崎(みよさき)遊廓の『萬延元年 横浜(?)細 見』(横浜らしい字が黒く塗りつぶしてある)の、写真版のコピーと、その解読 版である。 解読のおかげで、私にも内容がよくわかった。
万延元(1860)年といえば、福沢諭吉の咸臨丸アメリカ渡航の年である。 そ の前年福沢は安政6(1859)年、開港直後の横浜を見物に行き、看板の字が読 めず、蘭学から英学への転向を発心した。
安政6(1859)年6月2日に横浜が開港、4日に神奈川奉行所、運上所(税 関)が設置された。 手回しよく5か月後の11月10日に港崎遊廓が、現在の 横浜公園に開業している。 開港の日付については、以前Nさんに頂戴した『わ かるヨコハマ』(神奈川新聞社)でわかったが、港崎遊廓の話はどこにも出て来 ず、わからなかった。 あとがきを見たら、この本は横浜市立中学校の社会科、 理科、「横浜の時間」の副読本として編集・発行されたもので、志ん生ではない が、そういうことは学校では教えてくれないのだ。
ウィキペディアの「港崎遊郭(みよざきゆうかく)」によると、横浜開港に伴 い、開港場を横浜村とすることに反対する外国人を引き付けるため、また、オ ランダ公使から遊女町開設の要請があったことにより、外国奉行は開港場に近 い関内の太田屋新田に遊郭を建設することを計画、品川宿の岩槻屋佐吉らが泥 地埋め立てから建設までを請け負い、約1万5千坪を貸与されて開業した。 遊 郭の構造は江戸の吉原を、外国人の接客は長崎の丸山を手本にした。 規模は 遊女屋15軒、遊女300人、他に局見世44軒、案内茶屋27軒などがあった。 町の名主となった岩槻屋佐吉が経営したのは、岩槻の音読みから「岩亀楼」 (がんきろう)という名で、遊郭の中でも特に豪華で、昼間は一般庶民に見物 料を取って見せていたほどの設備を誇った。 幕府は外国人専用遊女(羅紗緬) を鑑札制にし、岩亀楼に託した。 岩亀楼内は日本人用と外国人用に分かれて おり、外国人は羅紗緬しか選ぶことができなかった。
以前、友人達と横浜散歩をした時、横浜スタジアム横の横浜公園で、岩亀楼 の遺物の燈籠を見たことがあった。 横浜市の解説文に「国際社交場をつくっ た」とあったのには、笑ってしまった。 文久3(1863)年の横浜地図では、 この場所がYOSHIWARAとなっている。
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