その頃の本所深川 ― 2011/01/06 07:08
川口松太郎、『人情馬鹿物語』では信吉が、住み込んで講談速記の手伝いをし た悟道軒円玉の家は、深川の森下にあった。 円玉の講談速記の全盛期で、国 民新聞、二六新聞、やまと新聞、万朝報など、下町に読者の多い新聞はほとん ど円玉の講談を掲載し、夕刊の立売は彼の読者が六割というほどの人気だった。 森下の市電の交叉点から一町ほど路地裏のその家には、夜毎にさまざまな有名 人が集まったという。 第六話「春色浅草ぐらし」で、文学芸術について一家 言を持っている円玉の養子で深川区役所勤めの四郎に、こんなことを言わせて いる。 「親父の講談速記がどうしてこんなに持てはやされるのか知ってるか」 「小説がつまらねえからだ。……愚劣な講談が売れるのだ」「親父もやがては種 切れになる」 講談はやがて滅びる、面白い小説を書く稽古をしろ、と説き、 それが後年の信吉にどれほど役立ったか知れないという。
「春色浅草ぐらし」は、その四郎と浅草奥山初音館の安来節の女お妻との物 語である。 二十五日、お不動様の月詣りにかこつけて、「風流深川踊」と自称 するかっぽれの元祖豊年斎梅坊主が、一緒に初音館に出ていて、是非円玉に会 いたいという安来節の女芸人を連れて来る。 円玉の目から見れば、梅坊主の 深川節がまっとうで、流行の安来節は場違いなのだった。 その女は四郎が結 婚しようと段取りしているお妻だったが、本人は堅気に化けろというのがどだ い無理だと決心していた。 円玉夫婦を前に、小声で安来節を歌った。 信吉 は、その安来節に、人の女房になる幸運を棄てに来た悲しみを聞く。
第九話「丸髷お妻」では、深川の住民や小商人も講談速記の愛読者で、地元 の悟道軒円玉の人気を自慢にし、「先生に喰べて頂きたいと思って持って来たん で、商売じゃありません。あっしの心持だから、この夕河岸を味わっておくん なさい」と、深川ッ子の「ぼてえ振り」が小魚の板台を持ち込んだりする。 ま だ(門前)仲町の夕河岸の立っている頃で、生きの好い東京湾の小魚が板台に ぴちぴちしている。 好島の漁師が早朝に船を出し、獲ってきた魚を、夕方に 帰って直ぐ売りさばく、小魚の市が仲町に立っていた。
第八話「櫓太鼓」、本所深川に育った者は例外なく相撲好きで、場所が近づく と世間話は相撲で持ち切る。 その頃の国技館は本所深川区内の小学校生徒に 三階席を開放して、無料で見せたのだそうだ。 「川向こうで育った者は櫓太 鼓の音を聞くと胸元がうずうずする」と、円玉に言わせている。
“江戸ッ子”女の覚悟 ― 2011/01/07 07:07
近頃は講談というようになったが、昔は必ず講釈といい、講談と呼ぶのは田 舎者にされていた、という講釈が、川口松太郎『人情馬鹿物語』の初めの方に ある。 括弧書きして、(然し、今は私も講談と呼ぶ)とある。 当時、講談は すでに衰退の道を歩んでいたらしい。 最後の第十二話「彼と小猿七之助」に、 その一端が描かれている。 活動(写真)が流行って、寄席の客が取られると いう話が出て来る。
円玉の弟子だった円林は、円玉が高座を引退した後、桃川如燕の門に入って 燕林と改名した。 その燕林が、下谷金杉の金杉館という色物席の看板娘お道 と一緒になりたいので、金杉の親父岩本に信頼の厚い円玉に話をしてくれるよ うに頼みに来る。 愚かで不足で貧しい燕林だが、お道はその芸に惚れ、この 男を育てなければ講釈の後継ぎがなくなって江戸伝来の芸がすたる、苦労も覚 悟で女房になろうと堅気の嫁になることを諦めたと、しっかりしたことを言う。 燕林に「小猿七之助」を演らしてみて、「うめえ」と、思わず円玉は手を打った。 芸にゆとりを持ち出している。 お道を家に預かり、円玉が金杉館に行くと、 岩本は話を聞かない内に断わった。 実は寄席の不景気が続き、金杉館を抵当 に高利貸から金を借りたのだが、返済ができず抵当流れになるところを、竜泉 寺町の請負師の国清彦兵衛に助けてもらった。 国清は上野山下に活動小屋を つくって、大当りに当っていた。 借金の肩替りも、金杉館を映画館に改造し て株式会社にして、経営は岩本に任せるという話で、ただ一つ条件があった。 お道をやる約束だった。 国清にはお内儀さんがいるが病気で女房の役が勤ま らない、当分正妻としては行きませんが…、という。
円玉が「死んでも国清の妾なぞになるな」とお道を匿い、騒ぎを聞いて、深 川万年橋の原茂三郎というやくざが仲裁に入った。 国清と同じ土木屋で洲崎 の埋め立てを請け負っていることもあり、原組と国清組の喧嘩という大ごとに なる。 お道は燕林を納得させ、「あたしが帰って解決をつけます」と金杉に帰 り、原を射ち殺す手筈の喧嘩支度をしている竜泉寺町の国清へ、ひとり乗り込 んだ。 「あたしだって生娘じゃありません。約束をした男があって夫婦にな るつもりでしたが、お父っさんの借金から御迷惑をかけた上は、体で返すより 他はない。生娘でなくてもようございますか」「好きな男と約束したあたしです から、年を切って世話をしてくれませんか、親分にもお内儀さんがあり、あた しにも好いた男がいるんですから、長い約束は出来ません。一年間で暇を下さ い」
「よし」と、彦兵衛は頷いた。頷くより仕方がなかった。
「年ぎめの女にしては値段が高いかも知れませんが、金杉館を改装して、親の 面倒を見て下さい」
「よし」とそれも頷いた。
お道の運命は如何に。 燕林と講談はどうなるか。 それは、また明日。
“人情馬鹿”の人情噺 ― 2011/01/08 06:36
お道は、国清に深川の原組との喧嘩もやめる約束をさせ、「身の廻りのかたを つけて来ますから、あしたは迎えに来て下さい。例え一年の約束にもせよ、親 分のお側(そば)で暮すのだから、みっともなくないように一門の児分衆へ顔 つなぎをして下さい」と、とどめを刺して竜泉寺を出た。
燕林が子供のように泣くのを、「あたしがいなくなっても芸の修業を怠るんじ ゃないよ」、「一年間のお別れに今夜此処へ泊って行く」という。 翌る朝は悟道軒へ行き、「斯うするよりいたし方がありません」、「女には惜し い奴だ」と円玉も涙ぐむ。
お道は、国清の妾になった。 彦兵衛は、年もまだ四十二で活動写真館を六 つも持ち、児分の数も百人に近く、その生活も華やかで、金放れも美しく児分 の信望も厚かった。 若いお道が中心に坐ると、家中の空気も明るくなり、彦 兵衛も嬉しそうにお道を信じ、竜泉寺へ来て十日目にはもう正妻同様だった。 頭の冴えているお道は、児分や人足を巧みに操り大所帯を切り廻して、彦兵衛 の信頼ばかりでなく家中の尊敬を集め出した。 金杉館の改造も出来て、両親の生活も順調になった。 家をお道に任せ切っ て、仕事に打ち込む国清が、男らしく見え出すばかりか、お道への情愛も申分 なく、幾ら金がかかっても知らぬ顔に訊こうともしない。 あっと思う間に一 年が過ぎた。
「いやな辛抱をよくしてくれて有難かった」と、国清は男らしく、「別れるの は悲しいが約束で仕方がない」と、残り惜しそうに目を伏せて、その頃の金の 千円を包み、「倖せに暮しな」と、さっぱりいって未練を口に出さなかった。
お道は迷いに迷いぬいた。 一年間の生活で男らしさに惚れ込んでしまった。 きびきびと仕事をして、稼いだ金を綺麗に散じ、幅を拡げる頭の冴えもお道の 性格にぴったりと合う。 こんな男と一生を過ごしたら、どんなに倖せになれ ようかと思う。 約束の根岸に帰っても燕林が馬鹿に見えそうだ。 芸の力を 除いてしまえば不足の多い人柄なのだ。 華やかな生活と、男らしい彦兵衛を 棄て、荒物屋の二階に行ったら、定めし見ざめがするであろう。
お道が荒物屋の二階へ行くと、燕林は七輪の下を煽いでいた。 男やもめの 暮しの暗さが姿までも汚くして彦兵衛とは比較にもならない。 でも、会えな い一年間を一生懸命に修業だけに打ち込んで来た、という。 一年前に悟道軒 で聴いた「小猿七之助」を、直ぐに聴いてみる。 扇を握って構えつけると、 きりきりと顔が引き締まる。 調子をつけて畳み込む意気の好さが一年前とは がらりと変った。 お道の心は忽ち酔った。 「修業を積んだ」「好い芸人にな んなすった」と、思った。 芸の中に浸り切って、愚かで不足な燕林が日本一 の男に見えた。
落語には、人情噺という分野がある。 中には講談から出ているネタもある。 この物語など、恰好の人情噺になりそうだと、思った。
福沢諭吉の「落語と講談」 ― 2011/01/09 06:53
『福澤諭吉事典』の第I章『生涯』7日常と家庭に、「落語と講談」という項 目がある(西澤直子さんの執筆)。 落語は、福沢が落語好きで、慶應義塾内の 万来舎や福沢邸などに落語家を招いて、落語会を催し、明治20(1887)年2 月11日には名人・三遊亭円朝も万来舎で演じている、とある。 そして落語 の新作も試みたと、以前「等々力短信」第901号・2001(平成13)年3月25 日「福沢さんの落語」で紹介した「鋳掛(いかけ)久平(きうへい)地獄極楽 廻り」(散憂亭変調 口演)に言及し、地獄にも文明開化が到来する話で、演説 館で三遊亭円遊が演じたという、とある。
講談については、こうある。 「福沢は人情話に涙もろいところがあり、講 談も好んだ。(明治)15年6月には京都で講談師尾崎晴海が、東京では日本橋 瀬戸物町伊勢本と下谷広小路本牧亭で同じく松林伯円が、「帝室論」を演じた。 伯円の講談の『時事新報』の広告には、『帝室論』を「俗解」した「通俗新講談」 とうたっている。 福沢が北里柴三郎を支援して設立した結核の専門病院養生園の娯楽会で、講談師真竜斎貞水を気に入り、さっそく養生園の田端重晟(しげあき)に紹介を頼んで、以後福沢邸でも貞水一派の会を開いている。」
有竹修二著『講談・伝統の話芸』 ― 2011/01/10 06:47
有竹修二さんの『講談・伝統の話芸』(1973(昭和48)年・朝日新聞社)と いう本が、本棚にあった。 函入の立派な本である。 なぜ買ったか事情は忘 れたが、ヒントになりそうなことが「あとがき」に書いてあった。
「講談という話芸に対して、いささか大仰にいうと、私の青春の精魂を傾け ました。大正後半から昭和の初めにかけて、半日を釈場の一隅でおくる日が多 かったのです。戦後、そのころの記憶をもとにして、講談に関することを、い ろんな機会に、あれこれと書きました。この道の人、田邊南鶴師が主宰した『講 談研究』という月刊の小冊子にしばしば寄稿し、和木清三郎氏(もと改造社員、 三田文学編集人)が独力で経営していた『新文明』に、毎号のように講談のこ とを執筆しました。これらの文章をまとめて一本の著書にしては、という人が 二、三ありましたが、なかにも小泉信三先生が切にそのことを奨められました。」
私はおそらく、『三田評論』か何かで、有竹修二さんの自著紹介か、小泉信三 さんの書評を、読んだのであろう。 本の帯に「〈講談〉の魅力を語る」「“講談” を愛しつづけて五十余年、この“伝統話芸”の味を知りつくした権威が贈る待 望の一冊! 忘れ得ぬ名人、名講釈のあとをたどりながら、釈界はなやかなり し時代の思い出を語る。 巻末に「現代講談師一覧表」・「講談についての文献」 を添えて― “釈場”の世界に読者を招待する!」
巻末の著者紹介によれば、有竹修二(ありたけ・しゅうじ)さんは、明治35 年大阪生まれ、慶應義塾経済学部卒。朝日新聞政治記者、論説委員、昭和21 年退社。時事新報社編集局長、常務取締役たり。現在朝日新聞社客員、静岡新 聞論説委員。昭和政治史研究を続ける。著作『昭和の宰相』『大蔵省外史』の他、 伝記もの十余篇。趣味 邦楽、関東地誌研究、講談、俳句誌『若葉』同人(俳 号秋耳)。
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