平塚へ友人の墓参に行く2011/07/30 05:40

28日、高校の同級生5人で、平塚までお墓参りに行った。  仲間の一人の T君が、万端手配してくれたおかげである。 高校三年生の、北海道修学旅行 の班編成が、始まりだったかと思う。 一学年4クラス、D組という理科系進 学クラスにいたのだが、そのクラスの中での異端分子が7人集まって、「三E の会」というのをつくっていた。 結局、その7人は経済学部に進学した。 7 人の内に、Mが3人いた。 背の高いM、優さ男のM、硬派のM。 北海道 修学旅行のアルバムのメンバー紹介に、優さ男は「平塚市出身。告白的ガール フレンド論をぶたせたら、志木高一といわれる」とあった。 背の高いMは去 年の4月に亡くなり、ずっと音信不通になっていた平塚のMが、十年前に亡く なっていたことが、最近になって判明したのだ。 お寺の息子で、大学2年の 頃、アメリカのミネソタ(?)に留学した。 昭和36(1961)年だったと思うのだ が、船で横浜港から渡米するのを、見送りに行った(大桟橋でなく、山下埠頭だ ったような記憶がある)。 大学を出ると、大手の金属会社に入って、お寺を継 がず、その後、宝石会社を経営していた。 年賀状のやりとりだけはしていた が、昭和58(1983)年のそれが転居先不明で戻って以来、音信不通だった。

お寺は五つ下という弟さんが継いでいた。 平塚宿の本陣跡のそばの、立派 なお寺だった。 松雲山 要法寺(ようぼうじ)、「日蓮聖人御一泊霊場」という。  門を入ると、大きな蓮の鉢がたくさん並べてあり、史跡巡りの人も訪れて、蓮 の花を眺めていた。 日蓮は、最晩年の弘安5(1282)年9月8日、健康状態が 悪化、療養のために常陸(ひたち)の温泉に向かって身延山を出発、途中9月16 日にこの地の地頭、平塚左衛門泰知邸に一泊した。 平塚左衛門泰知は、鎌倉 幕府の執権、北条泰時の次男。 寺伝によれば、日蓮は泰知邸で説法し、法華 経神力品の「四句要法」の一節を解説した。 その時、邸内にあった平 真砂子 の塚(天安元(857)年この地に没した桓武天皇の孫、高見王の娘「真砂子」の墓 所で、塚の平らなことから「平ら塚」と称し、「平塚」の名の発祥となった)に 立つ老松に紫雲がたなびくという瑞相があらわれ、それを眼前に見た一座の 面々百六十余名は、等しくお題目を唱和し、随喜讃仰して、法華経の信者とな ったという。 とりわけ泰知は深く感動し「たとえ北条氏に背き父君の意志に 反するとも、この有難い法華経のためならば」と、日蓮に懇願して直弟子とな った。 また、自らの館を献上して寺とすることを誓い、日蓮から紫雲の瑞相 にちなみ「松雲山」、四句要法の一節にちなみ「要法寺」という山号寺号を、自 らは松雲院日慈上人の法号を賜り、この寺を開山したという。 日蓮は、この後、横浜の瀬谷などを経て、洗足池では足を洗い、10月13日 に東京池上本門寺で没した。 この命日に行う法会が、お会式である。

そんなわけで、要法寺は日蓮宗総本山身延山久遠寺の直末(じきまつ)という 格の高いお寺なのだった。 高校生なんて暢気なもので、Mからそんな話を聞 いた記憶もなく、まったく頓着なく、ただの友達として付き合っていたのであ った。