一朝の「淀五郎」2011/09/01 05:39

 トリの一朝ともなると、羅、透綾か、黒い透けた着物で出てきた。 人間が 皮肉で、いじわるな市川団蔵の守田座で、『仮名手本忠臣蔵』四段目の塩冶判官 をやる役者が倒れた。 団蔵は香盤(名簿)を見て、こいつにやらせろ、と言う。  芝居茶屋のセガレで、団蔵のひきで、相中、下立役、名題下と出世し、ついに 名題(真打)に昇進した沢村淀五郎だ。

 四段目、弁当その他を客席に運びこめない、出物止めという幕だ。 だが、 いざ切腹という時に、団蔵の由良之助が花道の七三に止まったきりで、そばに 寄って来てくれない。 理由を訊きにいけば、本当に腹を切ればいい、まずい 役者は死んだほうがいいんだ、と言われる。 旅に出ようか、団蔵を刺し殺し て死のうかと悩みつつ、中村座に寄り「おはようございます、晩くにあがりま して」と栄屋・中村仲蔵に暇乞いをする。

暇乞いと聞いて、旅にでも出ようというのか、なろうことなら、旅に出てほ しくないんだがな。 酒の支度をさせ、誰も入れるな、と指示する。 花道の 一件、噂は聞いている。 芸の工夫は大切だ。 えらい、よくそこに気がつい た。 本当に腹を切ろうという料簡はいいが、判官が由良之助を刺し殺して腹 を切るなんて、聞いたことがない。 ハハハハハ、お前さん、若いねえ。 淀 さんを名題にした紀伊國屋の親方(団蔵)が、花道の七三に座ったきりというの は、どんな思いで、座っているか。 お前さんに、見所があるからこそだ。

一度、初めからやってみせてくれ。 (煙草を喫みながら見て) もういい、 こっちへお出で、ありゃまずいねえ、誰の型だ。 誰の型でもない、型無しっ ていうんだ。 師匠の判官、見てないか。 料簡がなってない、五万三千石の 大名だぞ。 左手をつくのは、よくない。 左肩が下がって、形が悪い。 手 を膝に、形よく、品よく、やらなくっちゃいけない。 耳たぶの裏に青黛(せ いたい・青いまゆずみ)を塗っておいて、腹を切ったら、中指につけて、唇に さっと塗る。 セリフを張り過ぎてはいけない。 刃物が身体に入った、寒い 思いで、セリフを霞み気味に言う。 刃物を持った手のひらを上向きで、落ち 入りになるようにする、大星力弥が取りやすいように…。

家で、一生懸命に稽古した淀五郎、意気込みが違い、勢いがいい。 団蔵は、 出来た、いい判官だな。 ハハァ、こいつ一人の力じゃないな、栄屋か。

「淀五郎」、最近の落語研究会では2007年12月の第474回に林家正蔵がか けた。 その時も書いたのだが、山口瞳さんに『旦那の意見』(中央公論社)と いう本があり、表題の文章は、この中村仲蔵の意見、忠告が素晴しいという指 摘だ。 仲蔵は、まず人払いをし、一対一になって、淀五郎にやらせてみて、 どんな心持でやるかを話し、さらに具体的なことをいくつか指示し、顔を上げ た時に相が変わるのを見せる秘密の技まで教え、酒にする、というわけだ。

スタジオジブリと徳間書店・徳間康快2011/09/02 06:02

 7月 26日「『コクリコ坂から』を観て」に、「徳丸=徳間書店のヨイショが 見え見えだったのは、ちょっと残念だった」と書いた。 私は、スタジオジブ リが、まずアニメーション映画をつくり、その関連書籍やグッズの販売を徳間 書店がやるという図式だと、思っていたのである。 少し筆がすべったかなと いう感じがあったが、苦情は来なかった。

 8月17日の朝日新聞朝刊文化面のコラム「甲乙閑話」の、「駿から吾朗への 継承物語?」を読んだ。 小原篤記者は、主軸の高校生の恋と、二人の父の青 春時代を絡めた物語に、宮崎駿から長男の吾朗監督への「父から子への継承」 を深読みする仕掛けが、映画の中に潜んでいると指摘して、こう書く。 「徳 丸のモデルはジブリ創設者で徳間書店元社長の故・徳間康快。建物(カルチェラ タン)の玄関近くには「志 雲より高く」という垂れ幕が見える。これはジブリ 前に立つ、徳間が記した碑文と同じだ。徳丸は建物を再生させた若者たちをた たえ、存続を認める。まるで、ジブリ創設者に「受け継いで頑張れよ」と言わ せたようなものでは?」 

 7月末、日本テレビの「日本で(?)一番カワイソウナ監督・宮崎吾朗」とい う番組を見た。 鈴木敏夫というプロデューサーが『ゲド戦記』で宮崎駿の息 子・吾朗を監督に起用したのは、経験はないけれど、彼のインスピレーション を買ったからだという。 父の駿は大反対したが、駿自身は『紅の豚』の中で、 主人公ポルコの飛行機を修理する若い女性設計士フィオが「大事なのは経験か、 インスピレーションか?」と聞くと、ポルコに「インスピレーションだ」と、 言わせているのにね、と笑っていた。 『コクリコ坂から』の終盤、海と俊の 父たちの仲間三人が写真館で写真を撮る場面、駿の台本にないセリフを吾朗が 追加したのだそうだ。 0号試写で、それを観て、駿がドバーッと涙を流した のを、隣に座っていた鈴木敏夫が「バカだねえ」と言っていた。 スタジオジ ブリにおける宮崎駿と鈴木敏夫の関係を、見事に浮かび上がらせる一言だった。  どうも鈴木敏夫という人が、えらいらしい。 この人物に、興味を抱いた。

鈴木敏夫さん、高畑勲・宮崎駿と出会う2011/09/03 06:06

 鈴木敏夫さんは、1948(昭和23)年名古屋生れの63歳、1972(昭和47)年慶應 義塾大学文学部(社会・心理・教育学科社会学専攻)卒業、徳間書店入社、『アニ メージュ』編集部を経て、『風の谷のナウシカ』を機に映画制作へ。 1989(平 成元)年よりスタジオジブリ専従、プロデューサーとして『もののけ姫』『千と 千尋の神隠し』など、大ヒット作を次々に生み出す。 現在、スタジオジブリ・ 代表取締役プロデューサー。

 鈴木敏夫さんは、8月『ジブリの哲学―変わるものと変わらないもの』(岩波 書店)という本を出しているが、私は手に入った2008年7月刊の岩波新書『仕 事道楽 スタジオジブリの現場』を読んだ。 これで、スタジオジブリと徳間書 店、徳間康快(やすよし)、高畑勲、宮崎駿、スタジオジブリ二十数年の歴史が、 よくわかった。(以下、鈴木さん以外は敬称を略す)

 鈴木敏夫さんは、徳間書店入社後『週刊アサヒ芸能』編集部に配属されて三 年間、企画班や特集班でいろいろな週刊誌体験をし、ともかく現場へ行ってみ ると見えてくるものがあるという感覚が身についたり、別冊『コミック&コミ ック』の編集にかかわったりした。 児童少年編集部『月刊テレビランド』(二 年半)を経て、1978(昭和53)年5月創刊三週間前に突然、月刊『アニメージュ』 (尾形英夫編集長)編集のすべてをまかされる。 アニメーションのことを知る ために、即席の家庭教師をしてもらった女子高生が、高畑勲と宮崎駿の『太陽 の王子ホルス』がすごい、という。 高畑勲に電話で取材を申し込み、えんえ ん一時間かけて断られ、そばにいる宮崎駿に代わって、三十分話して宮崎にも 断られた。 その強烈な出会いが縁になって、もっとつきあいたいと思う。 高 畑勲も、宮崎駿も、沢山本を読んでいるし、NHKの第一期『シルクロード』 の映像の隅々まで全部覚えていた。 鈴木さんは、つきあう以上、相槌をちゃ んと打ちたい、共通の話題を持ちたい、教養を共有したいと思い、機会あるご とに聞き出して、彼らが読んできた本をひととおり読むことになる。

鈴木敏夫さん、プロデューサーの仕事2011/09/04 05:33

 高畑勲(パクさん)は、紅花のことを調べると本を書いてしまうほど、とこと ん研究するリアリズムに徹する人であり、具体的で素人にもわかりやすいやり 方でプロデューサーの仕事を進める。 鈴木敏夫さんは、監督(作り手)の味方 になるその手法、プロデューサー学を高畑勲に学んだという。  宮崎駿(宮さん)は、いい大人なのに、もう子どもみたいに純粋な人で、問題 が起こると、結局、もっともまじめな方向で決断する。 作品の登場人物には たいがいモデルがいる。 スタジオの新人や来客で、ちょっと不思議な感じの 人や面白そうな人に興味を持つ。 好奇心旺盛で、人間が好き、「知りたい」と いう欲求がとても強い。 物語に入り込んで、その人物になりきっちゃう。 お互いに信頼はするが、尊敬はしない。 尊敬しないことで、遠慮会釈なく 存分に言い合うことが出来、仕事が成立する、と鈴木さんは言う。

1984(昭和59)年の『風の谷のナウシカ』の成功で、翌年のスタジオジブリの 設立に進む。 それまでジブリは徳間グループの一事業部の名称だったのを、 買い取って独立する。 しかし1986(昭和61)年の『天空の城ラピュタ』の後、 1988(昭和63)年の高畑勲監督『火垂るの墓』・宮崎駿監督『となりのトトロ』 の二本立は、観客動員数が『ナウシカ』の半分の45万人になってしまう。 鈴 木敏夫さんは、この時から宣伝をまじめに考え出したという。 何よりもまず タイトル。 宮崎駿が考えたタイトルで一番すごいのは『紅の豚』、糸井重里さ んに見せたら「鈴木さん、これ以上のコピーはないよ」と言ったそうだ。 『仕 事道楽 スタジオジブリの現場』に図版がいっぱい入っているのだが、鈴木さん はポスターなどの絵も字も書く。 一昨日(2日)の夕刊の『コクリコ坂から』 の広告、「ロングラン決定!」の字は、明らかに鈴木さんの字だ。

 タイトルをどう広めるか、「特別協賛」が課題になる。 ジブリの場合、製作 費出資が関わらない、宣伝協力・共同広告に限っている。 「特別協賛」と銘 打った「タイアップ」である。 ジブリ作品を応援しているということでイメ ージアップにつながる。 これで日本テレビなどとの協力関係が生まれた。 本 格的に宣伝に取り組んだ『魔女の宅急便』(1989(平成元)年7月)は、観客動員 数を大幅に更新し、大成功をおさめる。 夏に公開して親子を大動員し、作品 の完成度の高さを強調して若い女性層を獲得しないと、大ヒットは望めない。

 『となりのトトロ』が大人気を得るのは、金曜ロードショーでのテレビ放映 からだった。 トトロのぬいぐるみは、テレビ放映のあと、映画封切二年後ぐ らいに、初めて登場し、その著作権使用料は大いにジブリを潤し、封切時には 成績の芳しくなかった『トトロ』が、今では最も収益をあげた映画になった。  その後、ジブリはキャラクター商品部を設ける。

「現代を言葉でつかむ」2011/09/05 06:08

 宮崎駿、宮さんがいつも言う映画づくりの三つの原則は、「おもしろいこと」 「作るに値すること」「お金が儲かること」だそうだ。 鈴木敏夫さんは、宮崎 駿との毎日の世間話のなかから、そして自分たちが追求してきた映像技術のな かから、結果として〈時代性と普遍性〉が立ち上がってくるような作品をつく っていきたい、と言う。 そして、ジブリ映画のテーマは、初期の地球を一人 で救おうというような、背負ったものが壮大なものから、「個人的な理由」に比 重を移している、とみている。

 鈴木敏夫さんは、「現代を言葉でつかむ」ことをめざしたい、と言う。 プロ デューサーとは結局、言葉をどう使いこなすかという仕事なんだ、映画づくり に関わるさまざまな分野の人たちに伝えるべきことを伝え、映画を観てくれる 人たちに向けた言葉を編み出す。 すべて言葉なんだ、と書く。 鈴木さんに はもともと「わからないものをわかるものに置き換えたい」という欲望がある。  その手段として言葉が必要だと思っている、と言う。

 この岩波新書『仕事道楽 スタジオジブリの現場』は、岩波書店の販売の責任 者、井上一夫さんのアイデアから生まれた。 「ぼくは、高畑さんや宮崎さん には関心が無い。しかし、鈴木さんには興味がある。普通の人は、高畑さんや 宮崎さんのような天才にはなることが出来ないけど、鈴木さんの真似なら出来 る」「自分は編集者型プロデューサーだと、鈴木さんが話していたことに興味を そそられた」

 日本の編集者の多くは、作家相手に雑談をして、その雑談のなかから作品が 生まれている。 日本では、プロデューサーは監督との雑談のなかで企画をた てて、監督を中心に映画を作る、と鈴木敏夫さんは書いている。

 鈴木さんにとって、何が楽しいといって人と付き合うことほど楽しいことは ない。 好きな人と、好きな仕事をしてきた。 プロデューサーという仕事柄、 多くの人と付き合うけれど、単なるビジネスというふうには捉えない。 会社 対会社じゃなくて、人対人なんだ、と言っている。