小三治「茶の湯」の本体(下) ― 2012/04/06 04:15
貞吉ばかりが血祭りになっているのはいや、誰か呼んで来て、おナカを下ら せましょうよ、若旦那はどうです。 あいつは、お流儀が違うから駄目だ。 貸 し店の三軒、豆腐屋、鳶の頭、手習いの師匠にしよう、生意気言ったら、店立 てだ、次からは「店請け証文」に書かせよう。
大家から「本日、昼時から茶の湯」と手紙が来る。 豆腐屋、物識り豆腐屋 で通っているのに、引っ越そうか、と隣の頭の所へ行くと、よんどころのない ことがあって引越の準備中、ババアが家の先祖で恥をかいたものはいない、こ の御位牌を何とする、と言ったから。 手習いの師匠は、元お武家様だと気づ き、急に風向きが変わったと、羽織を着て二人で先生の所へ。 よんどころの ない事情で引越すると、子供に言い渡している。 でも、お流儀という言葉が 出たら、ゲンコで張り倒そうと相談がまとまり、出かける。 お茶を飲むと耐 え難いけれど、本練りの羊羹を二つ三つ口に入れて、がまんする。 隠居の方 は、三人の客に茶を振舞ったという快感がたまらない。 御用聞きが来なくな り、向こう三軒両隣が姿を現さなくなった。 通りがかりの何の罪もない人を 連れ込む。 羊羹は本物だ、お茶を一服やればいい。 命知らずだね。 床の 間の羊羹の棹を、袖に入れて来る。
隠居は晦日の勘定を見て、驚いた。 薩摩芋をふかして、つぶし、黒砂糖、 黒蜜を入れたら、美味しい。 碗形の猪口に入れて、抜こうとしたら、抜けな い。 行灯の灯し油を塗ったら、抜けた。 「利休まんじゅう」と名付ける。
「茶の湯」を教えて頂きたい、という人が来た。 そう! いつもの倍の青 ぎなこを入れた。 どう飲めば、よろしいのでしょうか。 お茶は心、心がそ う思えば、その通りになさればよい。 グラングランとやり、吹いて、世話に なった人だからと、涙とともに呑み込んだ。 「利休まんじゅう」を口に入れ たが、飲みこめず、袂に隠した。 ハバカリに行き、袂のグチャグチャをつか んで、建仁寺垣の向うの畑へ投げた。 野良仕事をしていた男のツラに、ペチ ャっと。 また、「茶の湯」をやっていやがる。
平成24年度慶應義塾大学入学式を見学 ― 2012/04/07 04:11
慶應義塾大学では入学式に、卒業50周年を迎えた卒業生(塾員と呼ぶ)を 招いて、新入生の門出を祝ってもらうことになっている。 今年は、昭和37 (1962)年卒業、103年三田会の方々が招かれた。 私は昭和39(1964)年 卒業だから、二年後まで生きていれば(前日クラスメイトの告別式に参列して いた)、2014年の入学式に招かれるはずだ。 われわれの卒業年度の三田会は、 105年三田会という。 慶應義塾が出来て、105年目の卒業だからである (1858+1+105=1964)。 昭和33(1858)年の創立百年祭の時に4年生で、昭 和34(1859)年3月に卒業した兄の年度が、100年三田会と称した (1858+1+100=1959)伝統を引き継いでいる。 卒業50周年を楽しみにして いたその兄は、残念ながら、五年を残して、死んでしまった。
105年三田会は、2014年の入学式を目指して、すでに昨年から名簿の整備な どの準備を始めている。 それで慶應義塾当局から、今年の入学式と卒業50 年祝賀パーティー、招待塾員の様子を見学に来ないかという話があり、私も参 加させてもらうことになった。
平成24年度の入学式は、4月2日(月)日吉記念館で、午前10時からと、 午後3時からの二回に分けて、挙行された。 新入生が、全部で6,656名もい るからだ。 午前の部が、法学部、商学部、理工学部、別科・日本語研修課程、 午後の部が、文学部、経済学部、医学部、総合政策学部、環境情報学部、看護 医療学部、薬学部である。 私は他の二名の世話役と、午前の部を見学した。
日吉の駅を降りると、「入学おめでとうございます」とアナウンスしており、 新入生、父兄、それとわかる卒業50年の塾員で、ごったがえしている。 改 札を出た所で待ち合わせをしないでくれ、と要請しているので、クラスなどの 待ち合わせは銀杏の並木道にしたほうがよいかもしれない。 近年は両親ばか りか、祖父母や兄弟姉妹が来るケースもあり、午前の部3,500人の新入生に、 倍以上の家族が来るらしい。 会場の日吉記念館に、父兄は1,000人しか入れ ず、残りは日吉会堂や協生館など別会場でモニターを見るようだった。 会場 で隣の席になったご両親に聞いたら、一時間前には着いていたという。
「自分の頭で考える力を養え」塾長式辞 ― 2012/04/08 04:24
入学式は、長谷山彰常務理事の学事報告で始まった。 新入生6,656名の内 訳は、文学部803名、経済学部1,206名、法学部1,213名、商学部1,031名、 医学部112名、理工学部1,021名、総合政策学部441名、環境情報学部448名、 看護医療学部104名、薬学部227名、別科・日本語研修課程50名である。 そ の内、入学試験を受けて入った者3,944名、塾内の5高校からの進学者1,441 名、推薦入学1,035名、帰国子女72名、外国人留学生114名で、計6,606名 (別科を除く)。
清家篤塾長は、式辞で、まず新入生を振り返らせ、後方スタンドで見守る、 日本全国から入学を祝うために駆けつけた卒業50周年を迎えた昭和37(1962) 年卒業の方々を紹介した。 慶應義塾の一員となった皆さんは、お客さんでは ない。 第一に、自分の頭で考える力を養い、より良き人生を送れる力を、身 につけてもらいたい。 それには学問をすることが有効だ。 今は大きな変化 の時代で、地球環境、財政、人口の問題などで、持続可能性が問われているが、 過去の解決方法が効かない。 解決すべき問題を見つけ、なぜ起きているのか 自分で考えをまとめ、その考えが正しいかを何らかの方法を確認して、解決へ と進む。 それはテーマを見つけ、仮説を立て、検証し、結論を出す、学問の 方法論と同じだ。 福沢先生の言われた実学、実証科学(サイエンス)である。 まず幅広く学べば、学問を確立した人たちが、自分の頭で考えたプロセスを追 体験することができる。 何がわかっていて、何がわかっていないか、を知る ことが大切だ。 学問の方法を身に付けた上で、自分の研究をしてほしい。 課 外活動やスポーツも同じで、自分の頭で考える力を養うよい機会だ。
第二に、皆さんは慶應義塾をより良くする役割を担っている。 良い友人、 良い先輩、良い後輩に出会える大学、皆さん一人一人が、慶應が良い大学であ るための存在なのだ。 自分の良い点を高め、尊敬できる友人となる必要があ る。 慶應義塾には塾生が教師に学び、その塾生が教師役となって他の塾生を 教える「半学半教」の伝統があった。 当時の台所事情もあったが、慶應義塾 の教育のあるべき姿の原点をつくった。
清家篤塾長は、この式辞を、留学生のために短く英語で述べたのであった。
教職員代表、塾員代表の祝辞など ― 2012/04/09 03:14
教職員代表祝辞は、和気洋子商学部教授。 慶應義塾の伝統に、皆さんの新 しい感覚を加えて、日本の未来につなげて行ってほしい。 自分のために学ぶ のではなく、社会のための学び。 知性を社会のために使い、社会を適正な方 向へ導くのは、ここに選ばれた皆さんの使命だ。 長い時間軸を意識しながら、 知力を磨いてほしい。
夢がある。 入学は、その夢に一歩近づけるチケット、行く先のないチケッ トをもらったようなものだ。 「行く先のない」と言ったのは、自分で決める こと、個性を際立たせよ、ということだ。 ここには豊富なカリキュラムが用 意されていて、総合大学の垣根を越えた学びもある。 研究者は多くの抽斗を 持っていて、さまざまな疑問や相談に応えてくれる。 シンポジウムや講演会 を逃さずに活用することだ。 地球規模で考え、グローバリーに行動し、感性 を磨き、気づき、問題発見能力を高めて行ってほしい。 それが社会の強靭さ をつくる。
塾員代表祝辞は、読売巨人軍最高顧問の滝鼻卓雄さん。 昭和38(1963) 年卒業というから一年上、来年卒業50周年を迎える。 入学の時から、新聞 記者を目指し、新聞研究所で慶應義塾大学新聞に関わり、天職と思って読売新 聞に入った。 慶應の四年間は(1)実学を重んじ、(2)学問の自由が保障さ れていることから、半世紀にわたる使命感を持つプロのジャーナリストとして の、基礎体力をつけてくれた。 政治学科だったが、ゼミは経済学部のゼミを 取り、日吉・三田を自由に闊歩し、妻も発見した。 時事新報にかかわった先 輩達は、ジャーナリズムとは何か、ニュース価値とは何か、生の声で教えてく れた。 今、新しい近代を模索しなければならない、生活様式をどう変えるか、 日本の統治機構をどう変えるか、豊かさを持続するにはどうしたらよいか。 清 家篤塾長は、1月10日の福澤先生誕生記念会で、「買うことのできない価値」 について話された。 われわれがともにつくりあげてゆくのは、お金では買え ないものだ、その価値を見つけて下さい。
新入生代表の入学の辞は、理工学部の廣原茉耶さん。 福沢先生の「学問の 要は活用に在るのみ」(『学問のすゝめ』十二編)なども引いた、立派な入学の 決意表明だった。 慶應義塾と日本の未来は、明るいという感じがした。
塾歌斉唱の後、昭和37(1962)年卒業、103年三田会から卒業50年記念の 寄付目録贈呈と挨拶があった。 会計幹事の村上武さんと副代表幹事の清原武 彦さん。 卒業50年記念募金を1年間行い、住所のわかっている4,700名の 内3,700名と連絡が取れ、その半分近くが募金をした。 目標3,000万円を大 幅に超える4,150万円を大学施設整備資金として寄付した。 清原武彦さんは 挨拶で、この盛り上がりは私たち自身が驚いた、この愛塾精神は新入生諸君へ の期待に他ならない、「一身独立して、一国独立」の主役になってくれることを 信じたい、と述べた。 慶應義塾当局が、われわれ105年三田会を見学に招 いたのは、これを見せたかったわけだ。
51年前、慶大新聞に書いたコラム ― 2012/04/10 03:22
入学式の読売新聞・滝鼻卓雄さんの塾員代表祝辞で思い出したことがある。 高校新聞の仲間で(彼は日吉の高校)、大学では慶應義塾大学新聞にいて、読売 新聞に入った小谷直道君のことだ。 滝鼻さんの一年下で、慶大新聞からずっ と一緒だったことになる。 社会部からシドニー特派員、福祉・医療・年金な どの社会保障担当の論説委員などを務め、よみうりランドの社長をしていた 2006年に、惜しくも急逝した。
小谷君とは大学1年の終りに、新入生を迎えるオリエンテーション実行委員 会で一緒に仕事をした。 彼は慶大新聞から来て広報を、私は文連から出て財 務を担当した。 その縁もあり2年生の時、大学では新聞に関係していなかっ た私に、小谷君は慶大新聞の“ピロティ”というコラムの執筆を頼んでくれた。 500円の原稿料が出た。 私が初めて原稿料をもらって書いた文章で、お金を もらって書くことの苦しさを味わい、とてもこんなことは続けられないと思っ た。 以後、書くことは、趣味と遊びにした。
どんなことを書いていたか、すっかり忘れていた。 茶色くなった慶大新聞 を引っ張り出したら、昭和36(1961)年4月15日の第300号から(毎月5・ 15・25日発行)11月25日の第318号まで6回書いていた。 実に半世紀が 経過した。 最初の第300号は「桜の苗木」、何と今、住んでいる近くの桜並 木の話だった。 髪のふさふさした顔写真がついている。 われわれが卒業し た年、昭和39(1964)年の東京オリンピックに向けて、東京改造の大工事が 始まっていた。
「木に咲く花はいいものである。それもお花見などとあらたまって出かけて 見るより、思いがけなく出っくわして見るほうがいい。そんなことからか、田 園調布と野毛の間の桜並木は桜のトンネルとして運転手さんたちに親しまれて きた。千何百メートルかにわたって空が桃色に塗りかえられたこの道を車がゆ っくりと走って行くのは、いかにも春らしいのどかな風景であった。
その桜も来年からは見られなくなるという。この道路が環状八号線の予定路 にあたり道幅が二十五メートルに広げられるため、切り倒されることになった からである。何とも残念なことというほかない。
話はやや古くなるが、わが家の横を走っている第二京浜国道でもまったく同 じようなことがあった。緑の葉をつけて車の洪水にささやかな抵抗を試みてき た並木が、引き倒され、グリーンベルトも削り取られてしまった。あとは排気 ガスと絶え間のない車の列が殺伐とした国道を埋めているだけになった。
交通マヒの対策に、木を切り、グリーンベルトを削るような味気ないことを やらなければならなくなったのなら、もう東京はダメだと飛躍した判断を下し ても、大きな誤りにはならないだろう。東京のこの状態は、その場しのぎの細 かいことをやっているより、思いきった対策を講じなければならないことを示 している。
磯村英一氏は富士のすそ野にニュー東京を作ることを提唱しているが、桜の 苗木が何十年か後には立派な花をつける堂々とした大木になるように、今この ような事業を決行することは、何十年後かの日本に大きなプラスをもたらすで あろう。理想的と一笑にけされがちなニュー東京プランにもろ手をあげて賛成 する。」
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