明六社とは? ― 2012/05/27 02:17
19日、「おいしい山形プラザ」に寄る前、交詢社で福澤諭吉協会の総会と記 念講演会があった。 筑波大学の中野目 徹教授の「福澤諭吉と明六社-「文明 開化」の時代と思想的課題-」を聴く。 中野目さんの専攻は日本近代の思想 史、史料学で、国立公文書館勤務を経て現職、『近代史料学の射程』(弘文堂・ 2000)、『書生と官員』(汲古書院・2002)、『明六雑誌』(校注・解説)全3巻(岩 波文庫・1999~2009)、「徴兵・華族・私学―官庁文書にみる福澤諭吉、慶應義 塾―」(『近代日本研究』第5号・1988)などがある。
中野目徹さんは、明六社とは? から始めた。 明治6(1873)年に結成され た明六社は、当時の新知識であった洋学者たちが、毎月二回築地精養軒で会合 し、演説会を行い、『明六雑誌』を発行していた。 福沢は社長に推されたが辞 退し、創立を計画した森有礼(一番若い)が社長になった。 森有礼の演説に、 明六社は「学(science)」「術(technique)」「文(literature)」の「社中(society)」 とある。 社員は年齢順に、阪谷素(ひろし)、箕作秋坪、西村茂樹、杉亨二、 西周、津田真道、神田孝平、中村正直、福沢諭吉、加藤弘之、箕作麟祥、森有 礼、明治6年当時、51歳~26歳、39歳の福沢はほぼ平均年齢で、福沢を除く 全員が維新政府の役人(奏任官、大佐クラスから、少尉クラスまで)であった。 開成所(のちの東大)出身の旧幕府吏僚が多かった。 『明六雑誌』は日本最 初のマガジン、小さくて粗末な、エディターシップの感じられないような造り だが、毎号3千冊発行、全国津々浦々、外国で留学生にも、熱心に読まれた。
(参考「(明六社は)政治、経済、教育、宗教、思想、哲学、婦人問題など多 くの分野で開明欧化、自由新種の立場から論陣を張り、封建思想を批判し、開 国政策の理論的代弁者として啓蒙的役割を果たした」…『ブリタニカ国際大百 科事典』)
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