北里一郎さんの「福沢先生と北里柴三郎」 ― 2012/06/24 02:01
16日の土曜日は福澤諭吉協会の第23回一日史蹟見学会、「白金探訪―北里研 究所と幼稚舎―」だった。 9時30分、三田キャンパス正門向い側の南別館前 に48名が集合、バスで北里研究所へ。 北里柴三郎の孫、北里一郎さんの「北 里の歴史を辿る―福沢先生と北里柴三郎」という講演を聴く。 1955年慶應工 学部の卒業、明治製菓に入り、同社の社長や北里研究所社主を務めた。 学校 法人北里研究所(2008年に社団法人北里研究所と学校法人北里学園が統合し た)の相談役、客員教授。 柴三郎の写真にそっくりの一郎さん、首がなくて、 脚の短いところ、偏平足は似ているけれど、脳の遺伝子の配列は乱れていると、 笑わせる。
北里柴三郎を弟子たちが愛称したあだ名は“PAPA THUNDER”「雷オヤジ」 (“ドンネル”)などと、ホワイトボードにキーワードを書きながらの講演だが、 絶妙のタイミングを計って秘書の女性が、それを消す。 学生への講義だと、 「西南戦争」や「内務省」、「土筆ヶ岡養生園」は「どひつ」でなく「つくし」 だと、説明しなければならないが、今日はそれがいらない、と。
北里柴三郎は、ドイツに留学し、ローベルト・コッホのもとで学ぶ。 コッ ホの教え「学問というのは高尚な研究で自己満足してはいけない」「実際に応用 して人類に貢献することが学者の任務である」は、福沢の「実学(サイヤンス)」 の精神に通じる。 そして破傷風菌の純粋培養の成功、免疫血清療法の開発な ど、多大の業績を挙げて1892(明治25)年5月帰国した。 北里はわが国の 伝染病を撲滅すべく伝染病研究所を設立することを望んだが、日本の学界は冷 淡で、なかなか進展しなかった。
その話を適塾以来の親友長与専斎から聞い た福沢は、いずれ子供たちの為にと用意していた芝公園の借地を提供、森村市 左衛門の協力も得て、10月北里を所長とする私立の伝染病研究所を設立する。 時に北里39歳、福沢は57歳で、一万円札の写真の顔の時期だった。 翌1893 (明治26)年9月、白金三光町の福沢の土地に、わが国最初の結核専門病院「土 筆ヶ岡養生園」(命名も福沢)が開設される。 福沢は、北里は学者で、自分で 何もかもすることは不可能だからと、北海道炭礦鉄道会社に勤務していた塾員 田端重晟(しげあき)を東京に呼び戻し、事務主任に据える。 福沢の「理事長」 並の関与と指導と、蓄財に長けた田端のおかげで、福沢没後の1914(大正3 年)10月、政府が伝染病研究所を内務省所管から文部省に移管し東京帝国大学 に付属させた時、その方針に納得できなかった北里を始め所員一同は総辞職、 11月「土筆ヶ岡養生園」の一角に私立北里研究所を設立できたのであった。
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