納所辨次郎と言文一致唱歌2012/09/21 01:39

森村学園校歌の作曲者、納所辨次郎が「もしもし亀よ」の作曲者でもあると 聞いて、岩波文庫の堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』を見てみた。 納所 辨次郎は、「もしもし、かめよ、かめさんよ。」の「うさぎとかめ」のほか、作 詞の石原和三郎とのコンビで、「マサカリカツイデ、キンタロウ、クマニマタガ リ、オウマノケイコ」の「キンタロウ」、「モモカラウマレタ、モモタロウ、 キハヤサシクテ、チカラモチ」の「モモタロウ」、「はやくめをだせ、かきのた ね、ださぬと、はさみで、ちょんぎるぞ」の「さるかに」、「おつきさま、えら いな、おひさまの、きょうだいで、」の「おつきさま」も作曲していた。

納所辨次郎(岩波文庫は弁次郎、のうしょ・べんじろう、1865-1936)は、 明治20年音楽取調掛卒業。 その年東京音楽学校と改称された母校の助教授 から華族女学校(のち学習院女子部)助教授に転じ勤続25年、学習院教授と して明治45年退官。 名歌曲を多数残したと、注にある。

堀内敬三・井上武士の巻末解説、「六 言文一致唱歌の興隆」によると、明治 17(1884)年国語学者物集高見(もずめたかみ)が「言文一致論」を唱道し、 明治21、2(1888-89)年頃から小説家山田美妙が言文一致唱歌を試作し、小 説では山田美妙、二葉亭四迷、尾崎紅葉らが実践した。 明治25(1892)年 に出版された伊沢修二の『小学唱歌』の中には、言文一致唱歌が数種発表され ている。

この言文一致唱歌の普及に最も功績のあったのは、田村虎蔵(当時、東京高 等師範教官)で、田村は文学者大和田建樹、佐々木信綱、巌谷小波、石原和三 郎、芦田恵之助(えのすけ)、田辺友三郎、桑田春風などや、音楽家納所辨次郎 (学習院教官)と結んで、盛んに言文一致唱歌を創作し、唱歌といえばいわゆ る美文型の文語体の歌詞でなければ気品を失うという通念を打破して、こども には、こどものことばで、こどもの生活感情に合った唱歌を与えなければなら ないという主張をつらぬいた。

明治33(1900)年に第一集を出した納所、田村共編の『幼年唱歌』(全十冊)、 また明治36(1903)年に第一集を出し第八集まで続いた『少年唱歌』の中に は、言文一致唱歌が満載され、天下を風靡したものだそうだ。

さらに納所、田村は、佐々木吉三郎、大橋銅造(二人とも東京高師教授で教 育学・国語学者)とともに、『尋常小学唱歌』(佐々木・納所・田村共編、明治 38年10月から刊行、全十二冊、各学年三冊ずつ)、『高等小学唱歌』(大橋・納 所・田村共編、明治39年11月から刊行、全八冊、各学年二冊ずつ)を出した。

「キンタロウ」と「モモタロウ」は『幼年唱歌』初の上、「さるかに」と「お つきさま」は初の中、「うさぎとかめ」は二の上に収録されていた。

コメント

_ 濱田洪一 ― 2012/09/21 20:58

轟亭さん、納所辨次郎のこと、詳しく調べていただきありがとうございます。
前回コメントのコメントにあった、自動車部の山崎紘之亮さんって、高輪消防署のすぐそばにあった油屋さんの山崎君でしょうか。私は森村学園は5年生の終わりまでで、6年生から父の転勤で西宮市立甲東小学校に替わりました。中学、高校は、甲陽学院です。
名前は覚えてないのですが、山崎君なら、森村学園の帰りに遊びに行ったのを覚えてます。缶に入った油が並べてあるお店だったような気がします。

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