拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その1 ― 2012/09/22 02:50
15日、福澤諭吉協会の土曜セミナーで、曽野洋四天王寺大学教育学部教授の 「福澤諭吉の紀州人脈―教育ベンチャーの時代―」という話を聴いた。 アメ リカの9.11事件からほぼひと月後の2001(平成13)年10月21日から23日 まで、協会の福沢史蹟見学会で「和歌山・高野山・白浜を訪ねる」旅があり、 私はその参加記を『福澤手帖』111号に書かせてもらっていた。 セミナーの 予習として、その内「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」の部分をまず引いておく。 手荷物検査の厳しかった羽田から、関西空港へ飛んだ初日の夕方である。
「地中海の港町を再現したという和歌山マリーナシティのロイヤルパインズ ホテルに入る。 夕食前、和歌山県立文書館長の立花秀浩氏から「紀州藩の教 学と福沢諭吉」という講話を伺う。 紀州藩は第五代徳川吉宗を始め歴代藩主 が教育熱心で、大藩の実力をもって広く人材を求め、抱えては、藩の子弟の教 育に当たらせてきた。 幕末、緒方洪庵の適塾から池田良輔、福沢の一年後輩 にあたる山口良蔵、塩路(崖(きし)、岸)嘉一郎(山口と塩路は姻戚)を召し 抱えたことから、紀州と福沢の関係が出来た。 塩路と崖が同一人物であるこ とが、講話前の立花氏と西川俊作常務理事との会話から判明したことは、この 旅行の一収穫だった。
福沢が江戸で福沢塾を開くと、紀州から入塾する者があいつぎ、特に慶應2 (1866)年には小泉信吉(のぶきち)、松山棟庵、和田義郎(与四郎)、小川駒 橘(こまきつ)、草郷(そうごう)清四郎ら11名が入塾した。(私は資料を読 み間違って、この中に塩路嘉一郎の名も挙げてしまったが、誤りである。11年 を経て、お詫びして訂正しておく。) 明治5年に三宅米吉、明治7年に鎌田 栄吉が慶應義塾に入った。」
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