「紀州塾」、福沢が方向づけた和歌山の教育 ― 2012/09/24 03:14
前置きが長くなるが、曽野洋さんが『慶應義塾史事典』の「紀州塾」の項を 執筆していると知ったので、それも見ておく。 後期鉄砲洲時代(文久3(1863) 年9月末もしくは10月初め頃から慶應3(1867)年末まで)、紀州藩から同藩 士の子弟数名の入塾申込みがあったが、塾舎が手狭で収容しきれず、紀州藩が 建築費用を負担して新築した塾舎が「紀州塾」である。 この塾舎が出来たの で、慶應2(1866)年霜月(陰暦11月)、紀州藩士が一時に9名入塾した(一 昨日11名と書いたが、正しくは9名らしく、その時挙げたほかは広井智吉(と もきち)、小杉恒太郎(つねたろう)、辻村得一(とくいち)、畑上(はたがみ) 徳太郎、内田今三郎)。 それにしても、中津藩中屋敷の中に、紀州藩が建物を 建てたのだ、徳川御三家だから出来たことだろう。 そして「紀州塾」以後、 福沢諭吉または慶應義塾と和歌山の関係は、さらに深まっていくことになる。
昨日ふれたように、明治2(1869)年、浜口梧陵は福沢諭吉に和歌山への招 聘を断られたが、曽野洋さんが毎日新聞和歌山版に連載している「範は紀州史 にあり わかやま教育今昔」の8月22日付の記事から、その後の展開をみてみ たい。 浜口梧陵は改めて福沢に面会し、洋学校の設立趣意書と規則書作成を 依頼した。 その要請に応えたのが「明治二年十月共立学舎新議」である。 「共 立」には「財を有する者は財を費やし、学識を有する者は才力を尽し」て一緒 に学舎をもりたてること、資金は和歌山藩が負担しても、運営や教育方針は福 沢が推挙した民間の学者である松山棟庵に任せ、それについては藩は干渉しな いという路線が、福沢によって明示されていた。
生粋の藩士ではなく、民間から藩の重役に抜擢された浜口梧陵が構想し、福 沢によって方向を与えられ、松山が運営した共立学舎は見るべき成果を挙げぬ ままに、廃藩直前の明治4(1871)年1月末頃、その短い命脈を絶つ。 しか し、学舎が蒔いた西洋学の種は、和歌山県誕生後の明治7(1874)年に紀伊徳 川家の尽力で開校した開知中学校で発芽することになる。 いい教員を確保し 続けることができるかどうか、スタッフの供給源の人脈と仕組みはきっちりと、 和歌山と福沢、慶應義塾との密なる関係の中に形成されていたからである。 変 革期の〈学校建営の要点〉は、〈違い〉を〈つなげる〉教育構想、誰(人または 組織)と連携するか、場所の力、資金と教員確保の諸問題などにある。 激動 期の学制改革の成否は、時差を伴って判明する場合があることを肝に銘じたい と、曽野洋さんは特筆している。
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