小満んの「二十四孝」2012/09/06 01:52

 小満んには申し訳ないけれど、トリの登場ともなると、正蔵じゃあないけれ ど残暑の疲れが出たのか、眠くなってきた。 後半などは、へろへろで、批評 するどころではなかったことを、初めにお断りしておく。

 江戸時代の蜀山人、幕臣太田直次郎、学問吟味に合格して、勘定方下役人と なり、孝行下調べ御用を命じられ、和文で書けと言われ、五十巻、八千何百人 の親孝行者をリストアップした。 本人が孝養心の篤い人で、母七十歳、父は 少し上、仲間が賀の祝いをして、床の間の松の前に、両親が並んで謡い、尉と 姥のよう、酒盛りとなったという。

 明治、大正までは、大家と店子という気分があった。 大家に呼びつけられ て、「上がらねえわけじゃない、破れた奴凧じゃないから」 座れ。 大家さん も立ったらいいでしょう。 お前の所は、三日にあげずに喧嘩だ。 朔日、十 五日は休みます。 日に一度やらないと、心持が悪い。 やらないと、二日ま とめてやる。 一杯やろうと思っていると、皿の上に魚がない。 カカアも、 ババアも知らない。 隣の猫が、あぐらかいて、食っている。 猫が鯵を食っ たんなら、俺が猫を食おうと思って、尋常に勝負しろと言ったら、ニャンとも 言わねえ。 文句を言いに行こうとすると、カカアがお隣から金借りて返して いないというから、横に撫ぜた。 ちょうちんババアも、止めに入った、二人 は怪しい、足で蹴っ飛ばした。

 店(たな)、空けろ。 音羽屋ッ、大家さん、怒ると鼻の穴がふくらむね。 俺 も男だ、覚悟がある、若い頃に習った、柔も使えるんだ。 勘弁して下さい。  手をついて、謝れ。 ぜんてぇ、てめえは、親父が食う道は教えても、人間の 道を教えなかった。 店、空けろ。 こうこうのつけたい時分に、ナスはなし。

 昔は青緡(ざし)五貫文といって、親孝行をすると、ご褒美が出た。 今の 親孝行の相場はいくらぐらいでしょう。 五円ぐらい。 鼠の懸賞よりいい。  狸ババア、いや狸ばあさんのお母上を捕まえて、町内の質屋に持って行くと、 それくらい出すかね。

 昔、唐土(もろこし)に二十四孝というものがあった。 日本には二十四人 の親不孝。 秦の王祥は、義理の母が寒中に鯉が食べたいと言ったが、貧乏で 金がない、氷の張った池に素っ裸になって、腹ん這いになった。 すると氷が 解けて、鯉が二三匹飛び出した。 間抜けな話だ、氷が解けたら、そいつが池 に落っこちそうなもんじゃないか、あえなく王祥した。 それが天の感ずる所 だな。 癲癇なら、頭に草履を乗せればいい。

 孟宗は、母に食べさせようと、冬に筍を掘りに行った。 雪の積もっている 所に、筍などないから、天を睨んで泣いた。 天を睨まないで、薮を睨んだ。  筍の仁木弾正(にっきだんじょう)、泣いたらニョキニョキ出て来た。 孟宗、 もうそうはねえ。

 呉猛は、母親が蚊に喰われないように、自分の体に酒を塗って寝たが、親孝 行が天の感ずる所となったものか、まったく蚊に喰われなかった。

 大家の話に感心した親不孝男、五円の内職だと、母親に孝行しようとするが、 鯉は嫌いだし、筍は歯が立たない。 五合の酒を飲んだあげく、したみ酒を体 中にかけて、寝てしまう。 あくる朝、目が覚めると、ぜんぜん蚊に喰われて いない。 これぞ、天の感ずる所だ。 母親「なに、私が夜っぴて、煽いでい たんだ」

英米から引く手数多だった北里柴三郎2012/09/07 00:32

 体温計、注射器を始めとする医療用製品とサービスの会社、テルモ株式会社 の「医療の挑戦者たち」という新聞広告のシリーズがある。 6月20日に始ま り(朝日新聞)、毎月ほぼ一度、銅版画の絵をバックに、「医療の挑戦者たち」 の知られざるエピソードが紹介されている。 ちょうど6月、北里研究所を見 学して、北里柴三郎に興味があったところに、広告はその北里から始まったの だった。 そもそもテルモは、第一次世界大戦の影響で輸入の途絶えた体温計 を国産化するために、北里柴三郎を始めとする医師たちが発起人になり、1921 (大正10)年に設立された企業なのだそうだ。

 ドイツに留学しローベルト・コッホの研究所で多大の業績を挙げて1892(明 治25)年5月に帰国した北里柴三郎に、日本の学界は冷たかった。 それを救 って伝染病研究所を設立させたのが福沢諭吉だった。 その話を北里研究所見 学記に書いていた時、当時北里柴三郎には世界中からオファーがあった(この 広告で初めて読んだ)にもかかわらず、彼には祖国日本で伝染病予防のために 尽くしたいという強い思いのあったことを、知ったのだった。

 感染症が人類の最大の脅威であったこの時代、世界初の破傷風菌の純粋培養 に成功し、破傷風の血清療法を考案し、その技術をジフテリアの予防に応用す るなど、目覚ましい成果を挙げた北里柴三郎は、引く手数多だったのだ。 ケ ンブリッジ大学からのオファーは、研究所の規模、設備、待遇、すべてが理想 的で、13世紀から続く名門大学の研究所長になることは、北里の名声を不動の ものにする大きなチャンスでもあった。 しかし、北里はあっさり断ってしま う。 アメリカの大学からも、それをさらに上回る条件が示されたが、すべて 丁重に辞退してしまったという。

 微生物学の大家ルイ・パスツールも、イタリアの大学からの招きを断り、戦 災で荒れ果てた祖国フランスで微生物学研究所を開設した。 彼は「科学に国 境はないが、科学者には祖国がある」という言葉を残しているそうだ。

 北里柴三郎が帰る日本には、まだ北里が入るべき研究所すら存在しない。 し かし、北里には国費でドイツに留学させてくれた祖国への感謝と、その期待に 応えたいという気持の高揚があった。 「コレラ、結核、ペスト…多くの感染 症に苦しむ祖国の人たちのために働こう」。  (この広告の監修は、北里英郎北里大学医療衛生学部教授とある。)

破傷風菌純粋培養のきっかけ2012/09/08 01:03

 テルモ株式会社「医療の挑戦者たち」の新聞広告シリーズ、二回目(7月3 日)は、「ドイツ料理から発想した北里柴三郎の画期的な細菌培養装置」。 「日 本近代医学の父」と呼ばれる北里柴三郎の最大の業績は、ドイツ留学三年目に 成し遂げた「世界初の破傷風菌の純粋培養」だといわれる。 当時、ドイツで は破傷風菌の純粋培養は不可能とされていた。 研究所の同僚の下宿に誘われ ると、そのガールフレンドが料理を作っていた。 日本の茶碗蒸しのようなも のを作るのに、蒸し器のフタを開け、器に木の串を差し込んでいる。 何をし ているのかと聞くと、奥の方が固まっているか確かめているという。 その瞬 間、北里は躍り上った。

 古クギを足の裏に刺したとき、破傷風の病巣は傷の表面ではなく、奥の方に できる。 つまり、破傷風菌は酸素の届かないところで増殖するに違いない。  北里は料理をヒントに、破傷風菌が酸素を嫌う「嫌気性菌」であることを見抜 いたのだった。 北里はさっそく、酸素を排除できる細菌培養装置を自作し、 ついに1889(明治22)年、破傷風菌の純粋培養に成功、翌年には破傷風の血 清療法を考案した。 血清療法に用いられた基本的な概念は、今日では「抗体」 として現代免疫学の確かな礎となっている。

 「医療の挑戦者たち」、三回目(7月13日)は、「「日本近代医学の父」は多 くの医学者たちの育ての父でもあった」。 北里研究所からは、多くの世界的な 研究者が輩出した。 赤痢菌発見の志賀潔、黄熱病の研究で名を成した野口英 世、狂犬病の予防液を作った梅野信吉、梅毒の特効薬・サルバルサンを創製し た秦佐八郎など、多士済々である。

心臓カテーテル法と冠動脈拡張用バルーン2012/09/09 02:23

 「医療の挑戦者たち」の続く二回は、北里柴三郎から離れるが、北里が破傷 風菌を純粋培養したきっかけとなったと同じ「気づき」「発想」、そして勇気の 物語であった。  第四回(8月21日)。 1929(昭和4)年、晩秋のドイツ、国家試験に合格 したばかりの研修医ヴェルナー・フォルスマンは、医学書でチューブを馬の血 管から心臓に挿入し、血圧を測ったという記録を読んだ。 そして彼は、もし チューブを人間の血管から心臓に挿入できれば、強心剤を直接心臓に注入して、 より有効な治療ができるはずだ、と考えたのだ。 「これを生きた人間で試し てみたい」という衝動を抑えきれず、ある日、実験は決行された。

 彼は手術室で、自分の腕の静脈にゴム製のチューブ(尿管カテーテル)を刺 し、もう片方の手でチューブを心臓へと押し進めていった。 そして、腕から チューブをぶら下げたまま階段を降り、地下の放射線室でレントゲン写真を撮 影した。 チューブの先端は、確かに心臓内部の右心房まで到達していた。

 しかし、彼の体を張った実験に周囲の目は冷たく、研究室を追われ、大学を 去り、町の開業医となった。 27年後の1956(昭和31)年、フォルスマンは、 心臓カテーテルを使って、彼の実験の正当性を証明したアメリカの二人の研究 者とともに、ノーベル生理学・医学賞を受賞する授与式の会場にいた。(この項 の監修は、川田志明慶應義塾大学名誉教授)

 第五回(8月28日)。 われわれの心臓は、「冠動脈」という血管が、酸素と 栄養に富んだ血液を心臓の筋肉に届けているから、動き続けていられる。 冠 動脈が詰まれば、心筋梗塞のような生命に関わる病気になる。

 ドイツの循環器専門医アンドレアス・グルンツィッヒは、胸を開く大手術を せずに、血管内だけで冠動脈の詰まりを治療する新しい方法を思いついた。 血 管が狭くなった病変部へ、先端にゴムの風船を仕込んだカテーテル(細長い管 状の医療器)を血管から送り込み、病変部で風船を膨らませて押し広げる。 血 流は回復し、心臓は正常に動くはずだ。

 問題は素材だ。 彼は自宅のキッチンで助手と試作を始め、ソーセージのよ うに縦に伸びるだけのゴムや、プラスチックの素材をつぎつぎと試し、膨らみ 過ぎる塩化ビニールをナイロンで防ぐ構造にすることで、ついに狙った形に風 船を膨らませることができるようになった。 1977(昭和52)年、彼が考案 したカテーテルは初めてヒト冠動脈への臨床実験に成功した。 身体への負担 が少ない治療法として普及する冠動脈拡張用バルーンカテーテルの誕生である。 (この項の監修は、相澤忠範心臓血管研究所名誉所長)

三津五郎の一人芝居『芭蕉通夜舟』2012/09/10 00:23

 いささか旧聞になってしまったが、こまつ座の芝居『芭蕉通夜舟』を紀伊國 屋サザンシアターの三日目、8月20日に観た。 ほとんど坂東三津五郎の一人 芝居で、朗誦役を兼ねる黒衣4人(坂東八大、櫻井章喜、林田一高、坂東三久 太郎)が文字通りの舞台回しをする。 井上ひさし作、鵜山仁演出。 こまつ 座は久し振り、去年1月の平淑恵の一人芝居『化粧』以来なのは、ホリプロと の提携公演などで食指が動かなかったせいもある。 松尾芭蕉の人生を、歌仙 仕立ての全三十六景で描くと聞けば、これは興味をそそられる。 ほぼ1時間 半の一人芝居、長科白をしゃべりっぱなしの三津五郎は流石で、風格もあり、 素晴しかった。

 「寛文(かんぶん)二年。……と年号でいったのでは珍紛漢紛(ちんぷんか んぷん)、そこで西暦では1662年、伊賀国上野は春でした。 やがて日本の抒 情詩の歴史を書きかえることになるはずの大詩人もまた、人生の春の真っ只中 の十九歳、いまはこの木津川に浮べた台所舟で、七輪に火をおこしています。」 と朗誦役が唱える前書で始まる。

 火吹竹を吹いていた三津五郎は、ツと立って、「わたしは芭蕉。 わたしは芭 蕉、を演じます坂東三津五郎でございます。」と言って一礼、拍手をもらい、連 句の冒頭(あたま)の第一句、発句が独り立ちして、現在の俳句の先祖になる ことを説明する。 そして発句には、「挨拶の気持をこめることがなにより大事 とされております。 この芝居の冒頭にあたる第一景で、みなさまに御挨拶を もうしあげてもべつに罰は当るまいと考えたのであります。 いいえ、かえっ て芭蕉翁から「俳諧の作法を心得たるものよ」とほめていただけるかもしれま せん。 ちなみに、芭蕉翁の時代には、この連句のことを俳諧といっておりま した。」

 このように、井上ひさしらしいダジャレとユーモア、そして解説調が、全般に目立つ芝居だ。

 三津五郎の芭蕉はさらに、芭蕉翁が一人でいるところだけを選んで三十六の 場面にしたので、登場人物はひとりでに一人一人に絞られてしまっただけのこ とだという。 芭蕉は生涯を通じて、「一人になりたい、一人になろう」とつと めた人物で、発句にも一人住いの心地よさを詠んだものがすくなくない、死の 三年前の「嵯峨日記」には「ひとり住むほど、おもしろきはなし」とあり、深 川の芭蕉庵では、しばしば「閑居」なるものを行った。 門口に俳諧の生みの 親といわれている山崎宗鑑の狂歌を掲げて…。  「上は来ず中は来て居ぬ下は泊る、二夜泊るは下々の下の客」