『暮しの手帖』の大橋鎭子さん、その生い立ち2013/05/17 06:44

 雑誌『暮しの手帖』の創刊者で社主の大橋鎭子さんが3月23日に亡くなっ た。 93歳だった。 『暮しの手帖』63号、2013春4-5月号、通巻430号は、 その2日後の3月25日に発行されている。 『暮しの手帖』は、子供の頃か ら母が取っていたし、結婚後は妻も読んでいたことがあって、私も見ていた。  近年は、あるご縁に恵まれて、毎号拝見している。

 大橋鎭子さんの自伝『「暮しの手帖」とわたし』(暮しの手帖社・2010年)を 読んだ。 強い人である。 大正9(1920)年生れの鎭子さんは、妹の横山晴 子さん、芳子さんの三姉妹の長女、小学5年生10歳の時、北大を出て日本製 麻の工場長を歴任した父武雄さんが結核で亡くなり、喪主を務め、挨拶もした。  亡くなるとき父に、「鎭子は一番大きいのだから、お母さんを助けて、晴子と芳 子の面倒をみてあげなさい」といわれ、大きな声で、「ハイ、ワカリマシタ」と 答えた。 いま仕事をつづけていて、どうしていいかわからないとき、つらい とき、この病室の風景が目に浮かび、しっかりしなくてはと思うのだという。

 大森貝塚の上の海の見える高台、大井鹿島町に住み、大井第一小学校から「心 のふるさと」「育ての親」という府立第六高女(現 都立三田高校)に進む。 生 徒の健康が大事と考える丸山丈作(じょうさく)校長の下、年二回の「適応遠 足」(多摩川の土手を川崎から日野まで10里(40キロ)歩く、2里の多摩川園、 6里の登戸で帰るのも可)や温水プールがあり、定期試験や通信簿や席次のな い学校だった。 父のいない女学生時代、家で歯槽膿漏のための練り歯磨の製 造販売を始める。 オママゴトみたいな歯磨屋さん、14歳の女学生が伝手で売 り歩き、朝日新聞の論説委員室では主幹の土岐善麿や緒方竹虎が買ってくれた という。

 母方の祖父に月謝を出してもらった第六高女を卒業、日本興業銀行に入り、 調査課(課長は戦後東京都民銀行を創立した工藤昭四郎)に配属される。 新 聞の切り抜き、調査月報の編集、資料や図書の購入と整理などをして3年、も っと勉強しなければと、日本女子大に入る。 だが、健康を害し半年ほどで辞 め、昭和16年春、日本読書新聞に入り、日本出版文化協会の秘書室勤務とな る。 古賀英正秘書課長は、のちの小説家南條範夫、協会は内閣情報局のもと、 出版物の統制、検閲の強化を役割として、出版の許可や紙の割当てをしていた。

 昭和19年、日本読書新聞に戻り、敗戦を迎える。 母を幸せにしたい、祖 父にも恩返しをしたい、だが勤めていたのでは、収入が少なくてどうにもなら ない。 自分にできるのは、本や雑誌をつくることだ。 25歳の自分の知らな いことや、知りたいことをしらべて、それを出版したら、二十代の女の人たち が読んでくれるだろう。 そう田所太郎編集長に相談すると、親友でその道の 専門家、花森安治さんを紹介してくれた。 運命的な出会いであった。