仲見世から伝法院通りへ2013/06/12 06:30

 浅草の花道、仲見世は右の東側に52店、西側に36店、合計88店舗がある。  元禄、享保(1688~1735)の頃、浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近 くの人々に、境内や参道上に床店(とこみせ・小屋掛けの店)出店営業の特権 が与えられたのに始まる、日本でもっとも古い商店街の一つ。 明治維新の政 変で、寺社の所領が政府に没収され、浅草寺は東京府の管轄となった。 明治 政府は公園法を制定、東京府は浅草公園でも一切の特権を仲見世から取り上げ、 全店を取り払い、明治18(1885)年12月煉瓦造りの洋風新店舗、近代仲見世 が完成した。 この赤煉瓦の仲見世は、大正12(1923)年の関東大震災で壊 滅、14(1925)年に現在の鉄筋コンクリート造り、桃山風朱塗りの商店街に生 れ変り、昭和20年3月10日の東京大空襲で内部は焼失したものの、外壁は残 った。 夜間には浅草の催事を描いたシャッター壁画「浅草絵巻」を見ること ができる。 平成元(1989)年に平山郁夫教授の監修で東京芸術大学グループ が描き、平成18年に全店へ、全面リニューアルしたもの。

 仲見世を入って、伝法院通りの一本手前を右に入ると、仲見世会館があり、 仲見世の先代神輿が展示されている。 五月の三社祭の本社神輿、一の宮、二 の宮、三の宮に、さらしを巻くのは、飾りを壊さないためだそうだ。 指定半 纏を着た、町会で指定された担ぎ手でないと、担げない。 仲見世会館の横に、 河竹黙阿弥(1816~1893)住居跡の記念碑がある。 天保の改革で天保13 (1842)年から明治25(1892)年まで、聖天町の一郭、猿若町に中村座、市 村座、森田座の三座を集合させたから、近くのここに越して来たわけだ。 一 本先の伝法院通りの右手を探すと、黙阿弥作「白波五人男」の人形が、屋根の 上や壁面や路上に居るのを探せる。 弁天小僧、赤星十三郎、南郷力丸、忠信 利平、日本駄右衛門。

 伝法院、「でんぼういん」と読む、浅草寺の本坊。 小堀遠州作という回遊式 庭園を持つ中には入れないが、鎮護堂が公開されており、その柵越しに庭園を 覗ける。 狸が浅草名物といわれる訳を、木村吉隆さん著『江戸の縁起物』(亜 紀書房)で読んで、「短信」に書いたことがあった(福を呼ぶ豆おもちゃ<等々 力短信 第1032号 2012. 2.25.>)。 上野の戦争で逃げ出した狸が浅草奥山に 棲みつき、悪さをして、困りものだった。 伝法院のご住職の夢枕に立ち、保 護してくれれば、火災から守りましょう、と。 明治16(1883)年、鎮護大使者 として祀ると(それが鎮護堂)、「おたぬきさん」と呼ばれ、火伏せと盗難除け、 商売繁盛を祈る人々で繁盛した。