福沢、大童信太夫の赦免に働く2013/06/27 06:33

 慶應4(1868)年、戊辰戦争の際して、『八重の桜』にも出てきたように、仙 台藩は中立的立場を取ろうとし、武力鎮圧の方針を採る総督府と会津藩との調 停を図ろうとする。 だが、この年5月に奥羽越列藩同盟の盟主となるに及ん で、西軍(新政府軍)に対抗する旗幟が明らかになった。 しかし戦況が東軍 側に不利になるに従って、和平の道を探る家老但木土佐とその一派は、藩内の 勤王主戦派から攻撃を受け、9月10日藩主が西軍に降服謝罪することを裁断す るに及んで、敗戦の責任を負わされることになった。 但木は反逆首謀の罪で、 翌明治2(1869)年5月、東京の仙台藩邸で処刑された。 但木の片腕であっ た大童信太夫も、同じ運命をたどるはずだった。 大童は免職となり、黒川剛 と改名、危険を察知して仙台を脱出し、東京に戻り身を潜めたが、家跡没収の 処分を受けた。

 福沢が東京に潜伏した大童を支援し、その赦免について働いたことは、『福翁 自伝』「雑記」の「癇癪(かんしゃく)」の章に、くわしく述べられている。 政 府よりも、仙台藩内部の反対派(勤王派)の方が恐ろしい。 それで、藩主が 養子に来る件で働いたことのある福沢は、直接藩主に掛け合い、大参事の遠藤 文四郎と話をする。 大参事は、助けるけれど、薩摩あたりの口添えがあれば などと弱いことを言うから、福沢は薩摩の屋敷と交渉、政府の内意を聞いても らうと、自首すれば80日の禁錮で赦免するということがわかった。 福沢が 大童と、藩の財政を取りし切り、同じく潜伏していた松倉恂に同行して、日比 谷の仙台屋敷に出頭させる。 並んでいたのは、罪人大童松倉の旧時(むかし) の属官ばかり、罪人の方がよほどエライ、オイ貴様はドウしているのだという ような調子で、福沢はそばで見ていて、可笑しかったという。 実際には1か 月間の拘束で許されたようだ。 福沢は、「このことたるや仙台藩の無気力残酷 を憤ると同時に、藩中稀有の名士が不幸に陥りたるを気の毒に感じたからのこ とで、ずいぶん彼方此方(あちこち)と歩き回りましたが、口で言えばなんで もないけれども、人力車のある時節ではなし、いっさい歩いて行かなければな らぬから、なかなかほねがおれました」と、語っている。