福沢の大童信太夫評価2013/06/28 06:23

 そこでようやく、田中朋子さんが『福澤手帖』105号(2000年6月)に書か れた「貴下の御人物御気品を頗る賞揚せられ―大童信太夫宛伊東順四郎書簡―」 である。 書簡は、仙台市立博物館の大童家文書の中にある。 明治31(1898) 年12月28日の投函と考えられ、その日は『時事新報』連載中の『福翁自伝』 に、昨日書いた「癇癪」が掲載された当日である。 福沢は病臥中で、その意 を体した執事の伊東順四郎が、大童信太夫に宛てて書いた書簡だ。

 福沢は、その年5月11日に『福翁自伝』を脱稿、9月26日に脳溢血で倒れ、 一時は危篤状態になったが、危機を脱して好転、12月8日には病中世話になっ た人々を自宅に招いて小宴を催し、謝意を表した。 書簡によれば、「難解之道 理事柄にても直ちに御会得」ながら「御身自ら筆を取り文字を認めらるゝ事は 相叶ひ不申」という状態だった。 『時事新報』に掲載された大童の一件を、 読み聞かせたところ、懐旧の感少なからず、福沢がいろいろと話したという。  「貴下の御人物御気品を頗る賞揚せられ、世人が貴下の仙台地方の為め尽され たる大功労を知らぬが故に、貴下の名声高く広く世ニ顕らわれざるを遺憾とせ られ、何とかして世人に貴下の旧事の御働らきを知らしめ度御思召ニ御座候」。

 これより先、大童信太夫は赦免の後、大蔵、文部、内務の各省および警視庁 に出仕した。 また宮城県内の牡鹿、黒川、宮城などの郡長を歴任、伊達家の 家職も務めた。 県令松平正直が大童を牡鹿郡長に挙げようとして、福沢にそ の適否を尋ねたところ、「大童の天才」は郡長などでは不足で、県令もしくは参 議にふさわしい、と答えているそうだ。

 明治22(1889)年4月になってようやく、冤罪を特赦し家名再興の許可が 出た。 翌月29日付『時事新報』に、「明治維新の前後、東北の大藩に首(か しら)として佐幕論を唱え当時大(い)に藩中の士気を喚起し、世人をして天 下反逆の謀首と呼ばしめたる者は仙台藩の大童信太夫氏なり」、「旧幕府の末年、 攘夷の論議四方にかまびすしく腰間三尺の氷以て外人の肝を冷やからしむる際、 衆群を排して独り泰西を説き同藩中の有志に西洋思想の分子を吹込し者は大童 信太夫氏なり」と、大童を高く評価する略伝が掲載されている。 福沢の死よ り4か月前の、明治33(1900)年10月2日に亡くなった。