ヘボン博士、大童信太夫の痔を手術2013/06/29 06:36

 大童信太夫が福沢と親密な交際をしていた江戸留守居役当時、痔疾で苦しみ、 ヘボンの手術を受けていたことを、『福澤手帖』106号(2000年9月)の坂井 達朗さん(執筆当時、慶應義塾福沢センター所長)の論文で知った。

 以下は、坂井さんの論文による経緯だ。 元治2(慶應元・1865)年6月、 福沢とその親友高橋順益が、大童と往復している。 高橋は適塾時代の福沢の 同輩で、江戸で開業していた医師なので、これは大童の痔疾に関係していたの かもしれないが、高橋は8月に亡くなってしまった。 12月の大童宛福沢書簡 には、冒頭で病気を見舞ったり、「御痛所は如何。委細の御容体は隈川生より承」 り、などというものがある。 福沢と親交のあった隈川宗悦が治療にあたって いたことがわかる。 当時の大童の病状はかなり深刻だったらしく、明けて慶 應2(1866)年元旦の「年始祝儀」の行事にも、「病気ニ付キ」「列席仕兼」ね る旨の届を暮の内に提出して、自宅に引きこもっていた。 しかしこの日年始 に訪れた福沢には面会しているので、坂井さんは(交際十か月足らずで)「二人 の友情は病苦を押しても会談するという程にまで高まっていたことを示してい る」と言う。

 夏になっても病状がはかばかしくなく、6月1日横浜へ行き、翌日ヘボンの 診察を受け、3日午前10時、ヘボンは「ペイトルト云ヘル米人医」を伴って大 童の宿所へ来訪、ヘボンの執刀で手術が行われた。 この治療は当時としては 画期的なものであったらしく、横浜在住の医師14,5名が見学している。 ヘボ ンの治療は成功した模様で、大童は施術7日後の6月10日には、野毛から乗 船して、汐留に到着、自宅に帰っている。

 大童の横浜行きは、古い福沢門下生で、この時藩命で横浜の宣教師ブラウン に学んでいた、仙台藩士横尾東作の仲介があったものと推定されるという。 手 術の成功は大童に大きな影響を与えた。 長く苦しんで来た病気が、今風に表 現すれば、術後7日で退院できたのだから、その驚きと喜びは想像に難くない。  以後大童の西洋文明に対する信奉と洋学への傾倒は、いやがうえにも高まった のである。 ヘボンの医術は確かに劇的な効果を生んだらしく、これ以後の福 沢の書簡には「御痛所如何」という類の病状見舞いの文言がパタリと姿を消し ているという。