人も国も、独立の為には金〔昔、書いた福沢5〕 ― 2013/07/17 06:30
等々力短信 第127号 1978(昭和53)年10月5日
〔福沢と商売〕4 北里柴三郎へ、金をためておけ
福沢が北里柴三郎の人物を知り、その不遇に同情し、私費を投じて伝染病研 究所を建てたことは前に書いた(短信107、1978.2.25.)。 伝研はこうして私 立のものとして出発し、やがて国有国営に移された。 国有に移されるについ て所長であった北里は、当然福沢にその可否を相談した。 福沢はそれに同意 をしたけれど、二三日後北里を呼んで、官界の空気はいつ変るかも知れないか ら、今から用心して、同時に作った結核病院の収入から金をためておけと注意 した。
福沢死後の大正3年、ときの大隈内閣は北里を無視して、研究所を内務省か ら文部省に移管し、追って帝国大学の下に置くことを決めた。 北里は直ちに 研究所長の職を辞し、私費をもって北里研究所を起した。 北里は独力でそれができたのは福沢の教訓の賜物と考えていた。(小泉信三 『座談おぼえ書き』)
等々力短信 第130号 1978(昭和53)年11月5日
〔福沢と商売〕5 先進諸国に追いつく目標
先日のトウ(登阝)小平副首相の記者会見は大変面白かった。 中国はもっ と教条主義で、画一的な答が出るのかと思ったら、柔軟で率直な発言で感心し た。 中国は現在遅れているが、今世紀末にはその時の先進諸国の水準に追い つく目標を立てた。 だから進んだ日本の科学技術を学びたいと、はっきりい う。
明治2年、福沢諭吉は丸屋商社(現在の丸善)設立の趣意をのべた「丸屋商 社之記」の中で、日本は鎖国の睡眠中に、西洋の諸国に水をあけられた。 外 国人が日本に来るのは貿易がしたいからである、今貿易の権を外人に握られて は国の独立が危い、商売こそ「至重至大の急務」だといった。
福沢はやがて『文明論之概略』(明治9年)で、まず文明の精神を取り入れ て人心を改革し、ついには有形の文明に至るべし、とした。 トウ(登阝)氏 が外形の科学技術に終始したのは、精神に自信があるからなのだろうか。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。