「福沢屋諭吉」の名で出版を自営2013/07/20 06:28

 そこで、さっそく『福澤諭吉年鑑』と『福澤手帖』の総目次の利用を試みる。  [福沢諭吉と商売]の関連で、昔は書いていなかったが、福沢が明治2(1869) 年「福沢屋諭吉」の名で書林組合に加入し、出版の自営化を始めるということ があった。 総目次を検索すると、つぎの三本の論文が出た。

『年鑑』1 再録福沢諭吉研究論文 「福沢屋諭吉」の生成過程について~幕末維新期出版史の一断面として~ 長尾政憲 昭和49(1974)

『年鑑』5 福沢諭吉研究論文 福沢屋諭吉 丸山信 昭和53(1978)

『手帖』19 福沢屋諭吉に関する小考 伊東弥之助 昭和54.1

 ここで『福沢諭吉事典』の「福沢屋諭吉」の項も参照すると、「参考」として、 『年鑑』5の丸山信論文と、『手帖』19の伊東弥之助論考、長尾政憲著『福沢 屋諭吉の研究』(思文閣出版・1988年)が挙げてある。 長尾本は、『年鑑』1 の論文の発展したものだろう。 改めて『福沢諭吉事典』の有難さを認識する。  それぞれの論文や本を参照すればよいのだが、手っ取り早く、『福沢諭吉事典』 の日朝秀宣さんの「福沢屋諭吉」の項を読んでおく。

 福沢は偽版対策のためと、従来の書林が出版元としてかなりの利益をあげて いたことに対する著作者としての不満から、出版事業の自営化に乗り出した。  福沢は数寄屋町の紙問屋鹿(加)島屋から土佐半紙を千両の即金で買いつけて、 芝新銭座にあった慶應義塾の土蔵に積み込んだ。 次に書林から版摺り職人を 貸してもらい、何十人も集めて仕事をさせ、その職人から業界の内部事情を聞 き出し、版木師や製本仕立師も次々に引き抜いて、最終的には版下書き・版木 彫り・版摺り、製本、売り捌きの全工程を、福沢の直轄下に組み込むことに成 功する。 一方、既得権益を侵害された書林から苦情が出るのを見越して、書 林の問屋組合に加入した。 そのときの屋号が「福沢屋諭吉」である。

 現場では旧中津藩士の八田小雲と松口栄蔵が監督に当たった。 福沢のもと で全工程が行われたため、慶應義塾には福沢や門下生らの著作版木が大量に伝 存している。  その後、出版物の激増に伴い従来の個人商店から大規模で本格的な組織への 発展を図り、出版事業を慶應義塾の教育事業と有機的に関連づけるため、明治 5(1872)年8月に慶應義塾出版局へ発展的解消を遂げた。 しかし書林組合 の名簿には、8年9月の出版条例によって書林組合が有名無実化するまで、「福 沢屋諭吉」で登録され続けた。 だが「福沢屋諭吉」はあくまでも書林組合の 登録名で、出版元の名称として刊本に明記された例は確認されていない、とい う。