志ん輔の「夕立勘五郎」 ― 2013/07/25 03:54
寄席だけしかやらない噺だという。 当研究会のプロデューサーから、やっ てみませんかと言葉は優しいが、高圧的に言われた。 志ん生師匠が小遣い稼 ぎに、ちょちょいと作った。 美濃部家の人々は、結束が固い、お父さんを除 いて…。 一家の長女、美津子さんの話をよく聞く。 お母ちゃんが夜っぴて 内職をしているので、小学校一年生からご飯を炊いた。 七輪(知ってます? ここへ来る人は知ってるだろうけれど)に、どうやって火をつけるか、新聞紙 をまるめて、細い木を井桁に組んで、火をつけ、炭なら炭、石炭なら石炭に移 す。 マッチを擦るのは危ないから、その時だけお母ちゃんを起す、一年生か らよ、偉いって、言ってよ。 みんなを連れて、銭湯へ行く。 清(十代目金 原亭馬生)はいい子なんだけれど、妹がうるさい。 偉いって、言ってよ。 清 は、絵が上手だった。 ある日、お使いに行ったら、人だかりがしている。 覗 くと、清がローセキ(蝋石)でチャップリンを描いていた。 お母ちゃんは、 我が子ながら感心する、と。 それは、お母ちゃんの影響、布(きれ)に絵具 で描いていた。 クレヨンに紙を巻いたり、チューブに紙を貼る内職をしてい たから。 水彩で描いたのが三冊あったけれど、ある時、雨漏りで水彩が流れ ちゃった。 あん時だけは、嘆いていた。 二十日は、コロッケを買いに行く。 曳舟の肉屋が安いってんで、業平橋から曳舟まで歩いて行って、二つ買う。 ソースをたっぷりかけてもらって。 半分ツにして、四人、温ったかいご飯に 乗せると、美味しい。
寄席の好きな師匠は、倒れてからも、人形町の末広亭に電話して、これから 出るからね、なんて言っていた。 落語の方は、太鼓がなると出て芸をする。 猿回しのエテ公と同じ。 講釈師は、えばって出てくる。 ウハッ、ペッ、ペ ッ、茶を飲む。 だが大したことは、言っていない。 チャラ、チャンチャン (と、三味線の口真似)、ヨー、二階があってぇーー、平屋じゃない。 犬が西 向きゃあーー、尾は東ァシーーー。 雨が降る日はァーー、天気が悪いーーイ。 わからない、わからない、わからない、この世でわからぬことがあるーーウ。 ペン、ペ、ペ、ペン、その一つにはーーア、コンニャクのうらおもて。 可愛 い倅に孫が出来、嫁の悪口をいいながら、孫の器量を褒めているのが、わから ない。 チャラ、チャンチャン、お仕舞に、ひとッ節(ぷし)のサービス、皆 様お達者で、お家繁盛、町繁盛――ッ。 浪花節には、かなわない。
路地の寄席に浪花節がかかった。 赤沢熊造。 先生、たっぷり! 本日、 かくもにんぎにぎしく、ご来場をばたまわりましてぇーー。 一席(えっせき)、 うかげえーやす。 侠客(こうかく)にゃあよ、上州(ぞうしゅう)くぬさだ 村の忠治、チャラ、チャンチャン、大前田英五郎(おおみゃーだえーーごろ)、 清水港(すみずみなと)の次郎長(ずろちょー)なんどがおる。
ある日の事、勘五郎ォーが、ブンラリコーと歩いていると、土煙を上げて、 癇が強いおおけな馬がパッパラパァーーッ(志ん輔、顔をブルブル震わす)と、 かーけ出して来るではニャーーカ。 松平(まつでぇら)公が、可愛がってい た「夕立」と言う馬だ。 パッパラパァーーッ、パッパラパァーーッ。 勘五 郎ォーが、馬の股ぁ潜って、げんこを固め、馬の横っ面を、叩いたら、ひっく り返ぇって、おっ死んだ。 この先をやると長くなる、今晩は、これで終り。
もう、終わりか。 そうよ、オラは短いよ、出身地(ちっちんち)はヘッコ ロ谷だ。 オラの十八番(おはこ)だ、すごかったんだ。 オラが「夕立」や ると、客が必ず、雷を落とすで…。
志ん輔の田舎弁の講談、表情や仕種を含めて、とても可笑しかった。 当方 に、それを上手く伝えるだけの筆力がないのが、残念だ。
『風立ちぬ』いざ生きめやも<等々力短信 第1049号 2013.7.25.> ― 2013/07/25 03:56
宮崎駿監督作品『風立ちぬ』の試写を観た。 九割方が女性の会場を見回す と、監督と同じ72歳の私は、最年長かと思われた。 映画は、私達が生れた 前年の1940年から三年間、世界に傑出した戦闘機だったゼロ戦の設計主任・ 堀越二郎(1903-1982)の半生と、同時代を生きた堀辰雄(1904-1953)の自伝 的小説『風立ちぬ』を重ね合わせた夢物語だ。 辰雄は1934年、矢野綾子と 婚約するが、二人とも肺を病んでいて、八ヶ岳山麓の療養所に入院し、綾子は 亡くなる。 何を隠そう、私は高校時代、堀辰雄を愛読した。 洒落た変形本 の新潮社版の全集が、学校の図書室にあった。 『美しい村』の軽井沢・信濃 追分、『風立ちぬ』の富士見高原、『大和路・信濃路』の秋篠寺などは、憧憬の 地となった。 結婚後、辰雄と同じ奈良ホテルに泊まり、秋篠寺へも行った。
私は4歳の時、品川の中延で大空襲に遭い、父親に背負われて避難して助か ったが、宮崎駿監督も敗戦間際に宇都宮で同じ体験をしていたことが、『本への とびら』(岩波新書)にある。 アメリカ文化の洗礼を浴び、民主主義憲法の戦 後教育を受けて育った。 ディズニーの長編漫画映画を、学校から映画館へ観 に行った。 戦争や君が代やアメリカに対する考え方は、敗戦時に就学してい た人々とは、少し違うような気がする。
宮崎駿監督は、車や飛行機を始めとするメカと、それを造った人間に対し、 ずっと強い好奇心を持ってきた。 堀越二郎は、少年の日からの夢をかなえ、 東京帝国大学工学部航空学科を卒業、三菱内燃機製造に入社、一年半の欧州出 張後、良い機能の飛行機は美しいはずだというこだわりを持って、設計に奮闘 する。 テスト飛行中に墜落する挫折も経験した(映画では、少女の頃に関東 大震災で出会ったヒロイン菜穂子との、軽井沢での再会から婚約によって蘇え る)。 九試(昭和九年試作)単座戦闘機で、美しいスリムな外観、主翼に金属 板、沈頭鋲の採用で、徹底的に軽量化と空気抵抗を減らした機体を完成する。 細部までゆるがせにせず「根掘り葉掘りの堀越さん」といわれた。
ちょっと美し過ぎるのではないか、と映画を観た私は思った。 初号試写で 「自分の映画を観て、初めて泣いた」と挨拶した宮崎駿監督は、72年間の夢を、 全部この映画で実現したのだろう。 戦闘機は恰好良いが、戦争は大反対とい う自己矛盾を抱えている監督が、この作品でそれを再確認しようとしたという。 戦争が終わり、彼我の飛行機の瓦礫の中に、二郎が立つ場面はある。 司馬遼 太郎が「鬼胎」と呼んだ1930年代の日本の問題は、この短文では書けない。 堀越二郎の「ものづくり」が、手を抜かずに関東大震災の上野の群衆シーンを 描き切ったジブリのチームに重なる。 その時々を一生懸命生きなければだめ なんだ、という宮崎監督のメッセージと共に…。
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