『海辺の光景』の「海辺の光景」2013/07/31 06:33

 『海辺の光景』は、それから九日間、「永楽園」で父と共に、母親の最期を看 取る信太郎が描かれる。 病院は、高知湾の入江の一隅に小さな岬と島にかこ まれた、湖水よりも静かな海に向って、建っていた。 父の生家は、高知県下 Y村にあり、土地では旧家といわれている。 母は銀行員の娘として東京で生 れて、大阪で育った。 父は職業軍人、獣医の少将だったが、終戦の翌年5月 帰還した後、一日中庭で花壇のような畑をいじっているだけだった。 信太郎 は軍隊でかかった結核がなおらないままに寝たきりで、服飾雑誌その他の翻訳 の下請けをやっていた。 その鵠沼の家は、母方の叔父の別荘を借りたもので、 立ち退きを要求されている。 母親はどこからか借家人の権利についての新し い知識を仕入れてきて、対抗した。 そして近所となりの洗濯物にアイロンを かけたり、闇物資のブローカーの手伝い、家の一部を美容師兼マッサージ師に 貸して、自分も洗髪やマッサージをして、生計を支えて働いたが、生活は極め てあやうかった。 その頃から、母親の眼つきが変ってくる。 一家は、家屋 不法占有で告訴された。

 信太郎は、外出しても発熱することがなくなり、織物会社の嘱託として月々 固定の収入を得ながら、翻訳もまとまったものがこなせるようになった。 父 親も朝鮮動乱下の駐留軍の病院施設でカードの整理係に雇われた。 鵠沼に居 付いて7年、家を明け渡す日がやって来る。 動乱が峠を越し、父は解雇され た。 父と母は高知へ、信太郎は郊外の下宿に移った。 母親が普通でないこ とが、ようやくわかりかけていた。

 「永楽園」でその少し前、信太郎は、患者の男に「人間が死ぬるときは必ず 干潮じゃ。満潮で死ぬることは、めったにありやせん」と、聞いていた。

 母親は臨終の時を迎える。 ――九日間、そのあいだ一体、自分は何をして いたのだろう。 あの甘酸っぱい臭いのする部屋に一体、何のつもりで閉じこ もっていたのだろう。 せめてもの償いにするつもりだったのだろうか?

 そのとき、いつか海辺(「うみべ」とルビがある)を石垣ぞいに歩いていた信 太郎は、眼の前にひろがる光景にある衝撃をうけて足を止めた。  岬に抱かれ、ポッカリと童話風の島を浮べたその風景は、すでに見慣れたも のだった。 が、いま彼が足をとめたのは、波もない湖水よりもなだらかな海 面に、幾百本ともしれぬ杙(くい)が黒ぐろと、見わたすかぎり眼の前いっぱ いに突き立っていたからだ。

小人閑居日記 2013年7月 INDEX2013/07/31 07:24

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