宮崎駿監督の父と、堀辰雄の関東大震災2013/08/01 06:31

 宮崎駿監督の『風立ちぬ』と、関東大震災で、思い出したことなどを、書い ておく。 宮崎駿さんの『本へのとびら― 岩波少年文庫を語る』(岩波新書) に、大正3年生れの父親を語ったところがある。 父親は関東大震災の時に9 歳で、4万人近い焼死者を出した被服廠跡の広場を妹の手をひいて逃げまわり、 生き延びた。 祖父が命じて家の者はみな腹ごしらえをし、足袋はだしで避難 したおかげだったという。 私の父は明治44年生れで、宮崎駿さんの父上の3 歳上にあたる。 関東大震災の時には、中学に入ったばかりだったと言ってい た。

 堀辰雄は、明治37(1904)年12月28日、東京市麹町区平河町に生れた。  父堀浜之助は広島県の士族で、維新後上京し、裁判所に勤めていた。 母は西 村志気(しげ)。 浜之助には国もとに妻こうがいたが、病身で子供がなかった。  生後直ちに堀家の嫡男にされた。 39年(2歳)妻こうが上京したため、母志 気は辰雄を伴い、堀家を出て、向島小梅町に住む妹夫婦の家に身を寄せた。 そ の後、母と祖母と三人で向島土手下に移り、煙草などを商って暮した。

 明治41(1908・4歳)年、母は辰雄をつれて向島須崎町の上条松吉に嫁した。  義父松吉は彫金師で寿則(ひさのり)と号した。 辰雄は、昭和13(1938・ 辰雄34歳)年の松吉の死亡後、叔母に教えられるまで、松吉を実父、堀浜之 助を名義上の父と信じていたという。

 牛島小学校、東京府立第三中学を経て、大正10(1921・17歳)年第一高等 学校理科乙類に入学する。 入寮後、神西清を知り、以後終生親交を結ぶ。 同 期に小林秀雄、深田久弥等がいた。 この頃より、フランス象徴派詩人の作品 や、哲学書に親しむ。 大正12(1923・19歳)年5月、三中校長 広瀬雄に連 れられ、田端の室生犀星を訪問。 8月、室生犀星に伴われ、はじめて長野県 軽井沢に滞在。 9月、関東大震災に遭い、父母と三人で隅田川に避難したが、 母は水死した。 葛飾の四ツ木村に父と仮寓。 10月、室生犀星によって芥川 龍之介に紹介され、以後たびたび龍之介を訪問。 冬、胸を病み休学。

小説『麦藁帽子』と関東大震災2013/08/02 06:45

 堀辰雄の小説『麦藁帽子』は、母同士が知り合いだった兄弟姉妹の多い一家 に合流した、C県T村海岸の避暑地での初恋の話だ。 「私は十五だった。そ してお前は十三だった。」と始まる。 私は、お前の兄たちと、苜蓿(うまごや し)の白い花の密生した原っぱでベエスボオルの練習をしていて、田圃の中に 墜落、どぶ鼠になる。 近所の農家の井戸端に連れられて行き、素っ裸になる。  小さな弟と、苜蓿の白い花を摘んで花環をつくっていたお前が呼ばれて、駆け つけてくる。 「素っ裸になることは、何と物の見方を一変させるのだ! い ままで小娘だとばかり思っていたお前が、突然、一人前の娘となって私の眼の 前にあらわれる。素っ裸の私は、急にまごまごして、やっと私のグローブで私 の性(セックス)をかくしている。」 二人だけ残して、みんなはまたボオルの 練習をしに行き、「お前が泥だらけのズボンを洗濯してくれている間、私はてれ かくしに、わざと道化て、お前のために持ってやっている花環を、私の帽子の 代りに、かぶってみせたりする。そして、まるで古代の彫刻のように、そこに 不動の姿勢で、私は突っ立っている。顔を真っ赤にして……」

 みんなで釣りに行く。 蚯蚓(みみず)がこわい私は、お前の兄たちに釣針 につけて貰っていた。 しかし、しまいには彼等は面倒くさがって、そばで見 ているお前に、その役を押しつける。 お前は私みたいに蚯蚓をこわがらない ので。 お前はそれを釣針につけてくれるために、私の方に身をかがめる。 お 前の赤いさくらんぼの飾りのついた、麦藁帽子のしなやかな縁(へり)が、私 の頬をそっと撫でる。 「私はお前に気どられぬように深い呼吸をする。しか しお前はなんの匂いもしない。ただ麦藁帽子の、かすかに焦げる匂いがするき りで。……私は物足りなくて、なんだかお前にだまかされているような気さえ する。」

 翌年の夏のT村。 「この一年足らずのうちに、お前はまあなんとすっかり 変ってしまったのだ! 顔だちも、見ちがえるほどメランコリックになってし まっている。そしてもう去年のように親しげに私に口をきいてはくれないのだ。 昔のお前をあんなにもあどけなく見せていた、赤いさくらんぼのついた麦藁帽 子もかぶらずに、若い女のように、髪を葡萄の房のような恰好に編んでいた。」  病気で中学から帰っていた村の呉服屋の息子を、お前に紹介される。 呉服屋 の息子からは、その秋、お前への恋を打ち明ける手紙が来た。

 その翌年の夏休みは、有名な詩人に連れられて、或る高原で過した後、お前 の兄たちに誘われて、三たびT村に行く。 そして呉服屋の息子が、血を吐く のを目撃して、T村を去る。

 『麦藁帽子』の「エピロオグ」に、関東大震災が出てくるが、昨日書いた年 譜(新潮日本文学16『堀辰雄集』、編集部作成)の記述とは、少し違う。 地 震で、私は寄宿舎から家へ駆けつけるが、家は焼け、両親の行方は知り様がな かった。 父の親類のある郊外のY村(年譜の四ツ木村だろうか)を目指して、 避難者の群れにまじって歩いていて、お前たちの一家と会う。 すっかり歩き 疲れていた一家を、すぐ近くのY村に無理に引っ張っていった。 大きな天幕 の片隅で、一塊りに重なり合って、寝た。 かなり大きな余震もあり、急に笑 い出したように泣く者もいる。 すこしうとうとすると、誰だか知らない、寝 みだれた女の髪の毛が、私の頬に触っているのに気がついた。 私はゆめうつ つに、そのうっすらした香りをかいだ。 「それは匂いのしないお前の匂いだ。 太陽のにおいだ。麦藁帽子のにおいだ。……私は眠ったふりをして、その髪の 毛のなかに私の頬をうずめていた。お前はじっと動かずにいた。お前も眠った ふりをしていたのか?」

 翌朝、父が到着した知らせで目覚めた。 母は父からはぐれ、いまだに行方 が分らなかった。 家の近くの土手に避難した者は、一人残らず川へ飛び込ん だから、ことによるとその川に溺れているのかも知れないと、父は物語った。

朝顔は聞いていた!2013/08/03 05:26

 7月6日、毎年のことで入谷の朝顔市の初日に行き、一鉢買ってきた。 暑 い日だった。 たまたま土曜日に当たって、メトロの入谷駅から鬼子母神まで の露店の並ぶ通路は、ごったがえしていた。

炎天を朝顔提げて帰りけり

 今年の鉢は、白、赤、赤に白縁、団十郎の四色だった。 7月15日に大きな 鉢に植え替えたが、買って来た鉢は根がぱんぱんに張って、一杯いっぱいにな っていた。  暑さが続き、暑い夏になりそうなので、今年はたくさん咲くのではないか、 と予想していた。 それが7月末になっても、大輪ではあるが、数が少ない。  28日2つ、29日3つ、30日2つ、31日2つ。 31日の朝、夫婦で「今年は 大輪だけど、数が少ないな」と、話した。

 朝顔は、その話を聞いていたのだ。 8月1日は7つ、2日はなんと、34個 も咲いた。 朝顔の爆発だ。 入谷の朝顔は江戸っ子だった。 意地を見せた のである。 恐れ入りやした…。

江戸の園芸ブームと朝顔2013/08/04 06:15

 『花開く江戸の園芸』という展覧会が、7月30日から江戸東京博物館で始ま った(9月1日まで、月曜休館・ただし8月12日は開館)。 俳誌『夏潮』に 「季題ばなし」を連載した第二回、2010(平成22)年9月号に「朝顔」を書 いた。 江戸の園芸ブームと、入谷の朝顔市について、触れていた。 以下に、 その部分を引く。

 二百数十年平和が続いて、江戸時代は園芸ブームであった。 菊坂の菊畑、 新宿百人町鉄砲組百人隊のツツジの栽培など、花作りを副業にする武士も多く、 麻布や巣鴨の御家人たちも花を栽培して市場に出していた。 時代ごとに人気 の花が変化して、元禄のツツジ、正徳のキク、寛政のカラタチバナ、そして文 化文政のアサガオ・ブームが来る。 人々は品種改良を重ねて変化アサガオを 競った。文化5、6(1808、09)年頃、下谷御徒町に住んでいた大番組与力の 谷七左衛門、朝顔が好きで、その変種を作って楽しみ、並べた細竹に蔓をから ませ、極彩色の屏風を立てた形にした。 人々は「朝顔屋敷」と呼んで見物に 集まった。 七左衛門から種を分けてもらって、あちこちの空地で朝顔の栽培 が始まり、「下谷朝顔」は江戸名物になった。

 ここ十年ほど毎年、新暦の七夕に開かれる入谷鬼子母神の朝顔市へ行く。 早 朝から、たいへんな混雑だ。 近年は一鉢定価二千円、これでひと夏楽しめる。  朝顔の鉢を提げて電車に乗り、入谷から遠く離れるほど、みんなが見る。 江 戸の名残の、季節の風物詩という感じが色濃いが、入谷の朝顔市、江戸から連 綿と続いているわけではない。

 七左衛門の「下谷朝顔」が元祖で、下谷から入谷にかけて大輪の花を咲かせ ることが流行った。 しかし天保改革から幕末には朝顔どころではなく、いつ の間にか廃れ、忘れられた。 それが明治の初めに「入谷」で復活、明治25 (1892)年前後に最盛期を迎え、十数軒の植木屋が朝顔の異種を競った。 明 治末年からは、この辺りが市街地になって、途絶える。 鬼子母神真源寺境内 を中心に「入谷の朝顔市」として復活したのは、昭和25(1950)年のことだ った。 真源寺は戦後の地番改正で下谷一丁目、「入谷」ではないのがややこし い。 万太郎の句は昭和19年作。

 入谷から出る朝顔の車かな     正岡子規

 暁の紺朝顔や星一つ        高浜虚子

 あさがほやはやくもひゞく哨戒機  久保田万太郎

55年ぶりの『風立ちぬ』2013/08/05 06:17

 宮崎駿監督の『風立ちぬ』を観て、堀辰雄の『風立ちぬ』を読む人は、どの くらいいるのだろうか。 私は55年ぶり位に読んでみて、当然ながら、すっ かり忘れていた。 年譜を押えておく。 昭和9(1934)年、30歳の堀辰雄は 7月から12月まで信濃追分の油屋旅館に滞在したが、9月、前年軽井沢で知り 合った矢野綾子と婚約した。 翌昭和10(1935)年7月、許嫁の病状がすぐ れず、自分の健康もよくないため、許嫁に付き添って富士見のサナトリウムに 入った。 サナトリウムで、前からの腹案である「物語の女」の続編(後に「菜 穂子」となる)の構想を練り始めたが成功しなかった。 12月、矢野綾子死去。 

昭和11(1936)年7月から(翌年まで)油屋に滞在、12月「風立ちぬ」(「序 曲」「風立ちぬ」の二章)を『改造』に発表する。 昭和12(1937・33歳)年 1月「冬」を『文藝春秋』に、3月「婚約」(後に「春」と改題)を『新女苑』 に、昭和13(1938)年3月「死のかげの谷」を『新潮』に発表して、「風立ち ぬ」は完成する。 4月、加藤多恵子と結婚、『風立ちぬ』(「序曲」「春」「風立 ちぬ」「冬」「死のかげの谷」)野田書房刊。  『風立ちぬ』を読む前に、軽井沢、信濃追分、八ヶ岳、富士見の位置関係を、 地図で確認しておくことを、おすすめする。

 『風立ちぬ』の「序曲」。 「それらの夏の日々、一面の薄(すすき)の生い 茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもそ の傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方にな って、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に 手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜色を帯びた入道雲のむくむくした 塊(かたまり)に覆われている地平線の方をながめやっていたものだった。よ うやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつ あるかのように……」

 「春」と改題された「婚約」では、はじめて出会ってから二年、節子と私は、 八ヶ岳山麓のサナトリウムへ行く準備をし出していた。 「僕はこうしてお前 と一緒にならない前から、何処かの淋しい山の中へ、お前みたいな可哀らしい 娘と二人きりの生活をしに行くことを夢みていたことがあったのだ。お前にも ずっと前にそんな私の夢を打ち明けやしなかったかしら? ほら、あの山小屋 の話さ」「実はね、こんどお前がサナトリウムへ行くと言い出しているのも、そ んなことが知らず識らずの裡(うち)にお前の心を動かしているのじゃないか と思ったのだ。」

 二年前の夏、不意に口を衝いて出た「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩 句が、「又ひょっくりと私達に蘇ってきたほどの、……云わば人生に先立った、 人生そのものよりかもっと生き生きと、もっと切ないまでに愉しい日々であっ た。」