サナトリウムの、秋から冬2013/08/07 06:30

 秋になった。 節子の父が来て二日間滞在した後で、絶対安静の日々が続い たが、その危機は一週間ばかりで立ち退いた。 バルコンに出ると、「嘗(かつ) て私達の幸福をそこに描き出したかとも思えたあの初夏の夕方のそれに似た― ―しかしそれとは全然異った秋の午前の光、もっと冷たい、もっと深みのある 光を帯びた、あたり一帯の風景を私はしみじみと見入りだしていた。あのとき の幸福に似た、しかしもっともっと胸のしめつけられるような見知らない感動 で自分が一ぱいになっているのを感じながら……」

 「冬」の章、それは1935年10月20日に始まる日記体になる。 午後、病 人を残して、サナトリウムを離れる。 田畑を抜け、雑木林を越え、その山の 窪みにある人けの絶えた狭い村の中を一まわりした後、八ヶ岳山麓一帯に拡が っている落葉松林の縁(へり)を、もうそろそろ病人がもじもじしながら自分 の帰りを待っているだろうと考えながら、心もち足を早めてサナトリウムに戻 るのだった。

 10月27日。 そして気づく、この山を今と反対の側から見ていたことを。  「丁度二年前の、秋の最後の日、一面に生い茂った薄の間からはじめて地平線 の果てに、この山々を遠くから眺めながら、殆ど悲しいくらいの幸福な感じを もって、二人はいつかはきっと一緒になれるだろうと夢見ていた自分自身の姿 が、いかにも懐かしく、私の目に鮮やかに浮んで来た。」

 12月5日。 夕方、病人が不意に「あら、お父様」とかすかに叫んだ。 目 を赫かせた彼女は、「あの低い山の左の端に、すこうし日のあたった処があるでしょう?」「あそこにお父様の横顔にそっくりな影が、いま時分になると、いつ も出来るのよ……ほら、丁度いま出来ているのが分らない?」「もう消えて行く わ……ああ、まだ額のところだけ残っている……」 「お前、家へ帰りたいのだろう?」私はついと心に浮んだ最初の言葉を思わず 口に出した。 「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」と聞えるか聞えない位な、かすれ た声で言った。