山川健次郎(15)、フランス語を学ぶ2013/08/14 06:51

 山川健次郎に戻ろう。 図書館で星亮一著『山川健次郎伝 白虎隊士から帝大 総長へ』(平凡社)を借りてきた。 星亮一さんは、作家、東北福祉大学兼任講 師、1935年仙台生れ、東北大学文学部国史学科卒、会津藩や戊辰戦争について の著書が多くある。

 巻末に、男爵山川先生記念会編『男爵山川先生伝』(岩波書店)を参考にした 「山川健次郎略年譜」がある。 「慶応元(1865)年[12歳]日新館一等に 昇級。 慶応4(1868)年[15歳]沼間守一にフランス語を学ぶ。 明治元(1868) 年9月、若松開城、猪苗代に謹慎のあと、越後に脱走、長州人奥平謙輔の書生 となる。 明治4(1871)年[18歳]米国に留学。 明治5(1872)年[19 歳]エール大学に入り、三年間修業、物理学を学び、学位を受ける。 明治8 (1875)年[22歳]帰国。」とある。 そのあたりを、書いてみよう。

 慶応4(1868)年正月、鳥羽伏見の戦いで敗れ、会津藩は未曾有の困難に遭 遇していた。 (大河ドラマ『八重の桜』で、なぜロシアに行ったか、よくわ からなかった)兄の山川大蔵は慶応2(1866)年に幕府の外交使節小出大和守 の随員としてヨーロッパ、ロシアに派遣され、西洋文明を学んで帰国したばか りだったが、鳥羽伏見の戦いでは大砲隊を率いて戦い、主君が将軍慶喜ととも に江戸に戻ったことを知ると、戦傷者を戸板に乗せて大坂の天保山に運び、千 石船を見つけて和歌山に逃れ、さらに船を探して江戸へ、そしてようやく会津 にたどり着いたところだった。

 戦争に備えての洋式の軍制改革で、15歳の健次郎や柴茂四郎(もしろう、柴 五郎の兄)は、15歳から17歳の白虎隊に編成されたが、鶴ヶ城三の丸でのフ ランス式歩兵訓練についていけず、15歳組は除籍されてしまう。 代りに、祖 父兵衛(ひょうえ)に命じられたのがフランス語の学習だった。 この頃、会 津には旧幕府の要人が多数来ていて、その中に旧幕府歩兵頭の沼間(ぬま)慎 次がいた。 後年、沼間守一(もりかず)と名乗り、ジャーナリストとして名 をはせる人物だ。 延命寺で、沼間の部下の館林や林(兄大蔵と一緒に洋行) にフランス語を習った。