長州人奥平謙輔の書生になった事情2013/08/15 06:32

 山川健次郎は、会津戦争、鶴ヶ城攻撃では、祖父、母や姉たち(操は勇敢に 振舞い、双葉(二葉)は既に梶原平馬と離婚していた)と城内に入り、負傷者 の介護や伝令などを務めた。 日光口を守備していた大蔵に、手薄になった城 への帰城命令が出て、二百数十人の兵で大内宿まで戻ったが、城下は完全に占 領されている。 大蔵は、秘策を敢行した。 近くの小松村から会津に春を告 げる彼岸獅子の楽隊を動員し、その囃子に合わせて行進、入城に成功する。 両 軍とも軍装はマチマチで、洋服の兵の多い大蔵の軍は、会津藩の軍旗を掲げず に、敵の目をくらませたのだ。 入城した大蔵は家老に抜擢され、軍事総督の 大任を拝命した。 重臣たちは皆、意気消沈しており、若者に託すほか方法が なかったのだ。

 降伏によって、15歳以上の藩士は猪苗代で、藩主容保は会津若松の妙国寺で 謹慎となった。 大蔵は、健次郎ら5人の少年に、「脱走して若松の官軍総督 の陣営に行き、主君の助命を嘆願せよ、君らの扱い方によって藩に対する処分 もわかる、いいか、君らの一存で参ったことにせよ」と命じる。 参謀板垣退 助以下の土佐藩は、公武合体論で会津に近い立場だったこともあり、少年達の 決死の行動と藩主への思いに感激し、厳罰にせず優遇、藩兵を護衛につけて猪 苗代に送り返した。

 越後攻めの長州干城隊参謀、奥平謙輔から秋月悌次郎に手紙が来た。 秋月 悌次郎は19歳の時、江戸の昌平黌で寮の舎長に選ばれ、奥平謙輔ら全国の俊 英と交流していた。 手紙を届けたのは、越後に避難していた若松の真龍寺住 職河井善順、この会津と薩長を結ぶ一筋の光明を得て、秋月と大蔵の腹心小出 鉄之助は剃髪し、善順の寺男になりすまして同行、越後水原(すいばら)県権 判事になっていた奥平謙輔に会い、前原一誠にも紹介される。 二人は会津の 立場に同情的で、東京の大総督府参謀大村益次郎にも、会津に寛典で臨むよう 伝えることを約束してくれた。

 秋月はまた、奥平に会津の少年を書生に使ってくれるように頼んだ。 全員 が罪人として謹慎中では、子弟の教育もままならないからだ。 山川健次郎と 小川伝八郎が選ばれ、善順和尚に連れられて、猪苗代を脱出したのは、明治元 (1868)年11月13日だった。 越後に向う商人に同行し、法要に行く善順和 尚の小姓に扮して、雪の道を途中何度も官軍に誰何されながら、ようやく新潟 に着く。 奥平は越後府権判事として佐渡に渡っていた。 賊軍・罪人の会津 人であることがばれないようにして、佐渡にひと月半ほど滞在、奥平と新潟に 戻り、会津と敵対した北辰隊の隊長で新発田領の大庄屋、遠藤の広大な屋敷で 世話になる。 遠藤は健次郎らが会津だということを承知していた。 和漢の 蔵書が山ほどあり、それを自由に読むことのできる半年を過ごし、奥平と東京 に戻る。 この頃健次郎は斯波誠(しば まこと)を名乗っていた。