健次郎のアメリカ留学まで2013/08/16 06:40

 奥平謙輔は山川健次郎らを連れて、長州藩江戸屋敷に一角に転がり込む。 そ こには前原一誠もいて、奥平と夜晩くまで話し込んでいた。 兄浩も江戸にい て、会津藩の再興のために日夜奔走していた。 明治2年9月、奥平と前原は 萩に帰ることになり、健次郎らは再び越後の遠藤家の世話になるよう指示され、 明治3年3月までそこの万巻の書を読んで過ごす。 会津藩にもお家再興の許 しが出て、健次郎にも上京を促す手紙が来た。 明治3年4月から斗南移住が 始まったが、健次郎ら藩の子弟40人ほどは東京残留を命ぜられ、芝増上寺の 徳水院に開かれた斗南藩学校に入学させられた。 しかし、この学校4か月で 閉鎖される。 その余裕がなくなったのだ。 当時、東京で本格的に勉強しよ うとすると、第一が官立の大学南校、次が福沢諭吉の慶應義塾、福地源一郎の 共慣義塾、中村正直の同人社などだったが、健次郎には金がなかった。(馬場註 …健次郎が慶應義塾に学んだとしたら、この時期だろうか?)

 健次郎は一計を案じ、最初にフランス語を習った沼間守一が鍛冶橋の土佐藩 邸で開いていた私塾に書生として潜り込む。 沼間は、健次郎の兄とともに日 光口で戦い、相手の土佐兵をキリキリ舞いさせた。 それが敵将谷干城の目に 留まり、土佐藩に招聘されて、フランス語や英語を教えていたのだ。 沼間は、 兵学にしても化学にしても物理にしても、基礎は数学だと厳しく教えた。

 斗南の兄からアメリカに留学せよ、という手紙が来た。 北海道開拓使次官 の黒田清隆の提案による留学で、北海道開拓の枠で選ばれたのだ。 明治4年 正月元旦、黒田に引率された、健次郎らの一行は、汽船「ジャパン号」で横浜 港からアメリカ西海岸へ出発した。 国費留学(年間700ドルから千ドル(ア メリカの教授年俸並み))で日本のための留学だが、会津の人々の期待を一身に 担っての渡米だった。 石に噛り付いてでも勉強し、アメリカの大学を卒業し て日本に帰り、日本のため会津のために、何かをしなければならなかった。 何 を学ぶべきか。 会津の武士道は立派だったが、理学を軽視し、儒教や道徳を 重視しすぎた。 大砲も鉄砲も旧式だった。 蒸気船も、鉄道も、科学技術の 所産だ。 健次郎は、理学、科学技術の勉強をしようと、結論を出す。