「万国公法」「局外中立」と長岡の河井継之助2013/08/21 06:29

 「万国公法」の理解の有無が一藩の運命を決めることにもなったのは、司馬 遼太郎が『峠』に描いた河井継之助の長岡藩である。 河井継之助は、みずか ら海外を学ぼうと横浜の居留地A90番筋向いのスイス人時計商ファーブル・ブ ランド方に町人に変装して潜入し、夜は拍子木を撃って「火の用心」と呼ばわ って歩いた。 そして7万4千石の小藩をヨーロッパの小公国のような軍事と 産業と通商の能力を持った藩に仕立てようと構想した。

 戊辰戦争では、攻め寄せる新政府軍に、長岡藩はこの内戦のどちら側にも加 わらないから、藩領を避けて迂回してくれと、「局外中立」を要求している。 新 政府軍の軍監、岩村精一郎(高俊、土佐宿毛の陪臣。のち、佐賀の乱を鎮圧し た)は、この時24歳(河井継之助は42歳)、「万国公法」における「局外中立」 の条項など、まったく知らなかったので、長岡藩の時間稼ぎだろうと一蹴、二 人の会談は三十分ほどで決裂した。

 その結果、河井継之助は慶應4(1868)年5月9日、新政府軍との開戦に踏 み切った。 会津藩の旧友、秋月悌次郎との心情的連帯もあって、東北列藩同 盟にも加わった。 この開戦によって、河井は佐久間象山塾の同門でもあった 小林虎三郎から、のちにはげしく批判されることになる。――天子が幼いのを いいことに討幕の兵をあげた薩長は、むろん「姦邪(かんじゃ)」である。しか し、維新政府に戦いをいどんで藩国をあやまらせた継之助も、まちがいである、 と。 この小林虎三郎が、大参事として敗戦後の長岡藩を再建する。 見舞に 贈られた米百俵を子弟の教育のために学校をつくる資金にあてた話は有名だ。  虎三郎は弟たちとともに戊辰戦争に加わっているが、末弟の雄七郎には江戸で 勉学しろ、といい、福沢諭吉の慶應義塾に学ばせている。

 さて、5月9日に開戦に踏み切った長岡藩は、5月20日、一度城を奪われて いる。 だが、河井は戦い続け、二か月後の7月24日、長岡城奪回作戦を敢 行し、これに成功する。 長岡が父親の故郷だという半藤一利さんは『幕末史』 (新潮社)で、この夜襲のエピソードを書いている。 西軍の参謀が山県有朋 で、副将格として西園寺公望がいた。 二人とも河井の奇襲攻撃にあたふたと し、西園寺は陣羽織を裏返しに着たうえ馬に逆さに乗って尻尾の方を向いて逃 げたし、山県は裸でひょうたん一つぶら下げて逃げたという。 後年、二人が 会うと、この時の笑い話になったらしい。

 4日後の7月29日、長岡城は再び陥落、河井も会津へ転戦してゆくが、8月 16日、敵弾に当たって戦死した。 河井の死後、長岡藩の指揮をとったのが、 若い家老の山本帯刀で、この人も戦死した(24歳)。 後年、帯刀の山本家を 継いだのが、連合艦隊司令長官になる山本五十六(旧姓、高野)である。 長 岡の落城、二本松藩の落城とつづいて、8月28日には米沢藩が降伏し、9月22 日には会津藩が降伏した。 最後に残った庄内藩も、9月26日、黒田清隆を参 謀とする新政府軍に降伏して、東北の戊辰戦争は終息する。