慶應義塾に学んでいた意外な人2013/08/24 05:56

 11日に、「丸山信編著『福沢諭吉とその門下書誌』の「門下生の著作と略歴」 を、パラパラやったお蔭で、意外な人が慶應義塾に学んでいたことがわかった」 と書いて、山川健次郎の探索を始めた。 22日の結論で、この本の評価にマイ ナス点をつけてしまった。 だが、『慶應義塾150年史資料集―基礎資料編』 第一巻『塾員塾生資料集成』は、純粋に「入社帳」「学業勤惰表」「塾員名簿」 からの記載に留まっていて、特に「塾員名簿」はごく一部の人に限られている。  その人物がどんなことをした人だったか、わかる範囲で、生没年と「業績」を、 ごく簡単でもよいから記述して欲しかった。 その点では、取扱いに注意が必 要かもしれないが、丸山信編著「門下生の著作と略歴」に価値があるかと思わ れる。

 私が慶應義塾に学んでいた「意外な人」と書いたのは、例えば横尾東作、浜 尾新(あらた)、中牟田倉之助、田中館愛橘、那珂通世、妻木頼黄(よりなか) などである。

 ○横尾東作…仙台藩の医家の出で、文久3年初秋の入塾、仙台藩英学教授、 神奈川十等出仕、警視庁外国掛、内務省、南洋経営開拓のため日本恆信社創立、 「東洋のコロンブス」とよばれる。

 ○浜尾新…但馬豊岡[藩士]、明治2年9月1日21歳で入塾、大学南校卒、 渡米、明治7年東京開成中学校校長心得、明治8年文部省督学局学校長補、明 治10年大学予備門主幹、東京帝国大学総長(第1次明治26年3月~30年11 月、第2次明治38年12月~大正1年8月)、貴族院議員、松方内閣文相、枢 密院議長、男爵。

 ○中牟田倉之助…肥前佐賀藩士、明治2年10月14日33歳で入塾、佐賀藩 海軍士官、蘭人より海軍技術伝習、明治3年海軍中佐、兵学権頭、明治11年 海軍中将、海軍兵学校長、海軍大学校長、横須賀鎮守府司令長官、海軍参謀長、 明治27年枢密顧問官、子爵、日本海軍の創設者。

 ○田中館愛橘(あいきつ)…陸中〔岩手県福岡町〕、明治5年9月26日17 歳で入塾、明治7年3月開成所前身外国語学校入学、明治11年帝国大学理学 部入学、明治15年卒業、帝国大学準助教授、明治29年帝国大学理科大学教授、 理学博士、学士院会員、ローマ字会々長、昭和19年文化勲章、昭和26年文化 功労者、地球物理学の先駆者。

 ○那珂通世…東京府貴族〔南部藩士藤村政徳三男〕、明治6年5月5日21歳 で入塾、明治7年7月変則卒業、明治14年東京女子師範学校長、明治27年第 一高等学校教授、明治34年文学博士、東京高等師範学教授、学術論文は主と して「史学雑誌」に発表。

 ○妻木頼黄…東京府愛宕下町、明治8年12月6日16歳11カ月で入塾、明 治9年2月中退、明治11年工部大学校造家科入学、明治15年コーネル大学3 年入学、明治17年卒業、明治18年欧米巡遊、東京府御用係、明治19~21年 ドイツ出張、明治32年大蔵省建築調査会委員、明治34年工学博士、大蔵省総 務局営繕課長、明治38年同建築部長、東京府庁舎、東京商業会議所、横浜正 金銀行、日本橋、日本赤十字本社など建造。

 以上の6人は皆、『塾員塾生資料集成』に「入社帳」の記録があり、浜尾新、 中牟田倉之助、田中館愛橘、那珂通世の4人は「塾員名簿」の記載があった。