白井義男への第五の挑戦者、パスカル・ペレス2013/08/27 06:32

 百田尚樹さんの『「黄金のバンタム」を破った男』(PHP文芸文庫)の解説を 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか』(新潮社)の増田俊也さんが書いて いる。 今まで百田さんの著作で一番のお薦めは『永遠の0』と答えてきたが、 この本を読んで悩み続けているほどの、傑作ノンフィクションだと結論する。  ただ、その解説中に、昭和27(1952)年、白井義男が日本初の世界チャンピ オンとなる試合を、「後楽園ホールで四万人の大観衆を集めてタイトルマッチを 戦い」と書いている。 これは、私も観た「後楽園球場」だ。 後楽園ホール に四万人は入らない。 第1版第1刷、編集者も東京ドーム世代で、見逃した のだろうか。

 白井義男は、この昭和27(1952)年5月19日、世界フライ級チャンピオン になった後、同年11月、前チャンピオンのダド・マリノを再び後楽園球場に 迎え撃ち、大差の判定で破った。 白井の世界戦はすべて後楽園球場で行われ ている。 翌昭和28(1953)年5月、ダニー・カンポ(フィリピン)を、10 月、元チャンピオンのテリー・アレン(英)を、昭和29(1954)年5月、レ オ・エスピノサ(フィリピン)を、それぞれ判定で下し、4度の防衛に成功し た。 その2か月後、白井はアルゼンチンに招かれ、150センチそこそこの小 柄な男、パスカル・ペレスとノンタイトル戦を行った。 パスカル・ペレスは ロンドン・オリンピックで金メダルを獲得した後、プロに転向して23戦全勝、 しかもほとんどがKO勝ちというアルゼンチンのホープで、この時世界ランキ ング7位だった。 白井はテクニックでペレスをあしらい、7ラウンドには強 烈な右ストレートでペレスをロープまで吹っ飛ばして、完全にグロッギー状態 にした。 白井は敢えてKOは狙わず、試合は判定に持ち込まれた。 これが ホームタウン・デシジョンで、引き分けにされる。 この一戦でペレスは世界 ランキングを一気に上げ、白井への挑戦者の資格を得るのだ。

 そして昭和29(1954)年10月、白井はペレスとタイトルを懸けて戦うこと になる。 試合10日前に来日したペレスが、公開スパーリング中、右耳にパ ンチを受け、叫び声を上げ、頭を抱えて座り込む。 病院で診てもらうと、鼓 膜が破れていて、試合は1か月後の11月25日に延期された。 この延期で白 井のコンディションはガタガタになった。

 この鼓膜が破れた事件には、ある憶測がある。 ペレスの鼓膜は来日前に既 に破れていて、ペレス陣営は最初から延期を狙っていたというのだ。 ペレス はヘッドギアをつけていなかった。 トレーナーがペレスと一緒に来日してお らず、延期が決ってから来日した。

 このことに関しては、佐伯泰英さんの『狂気に生き』第一部(新潮社)とい う本がある。 私はこの本を昭和61(1986)年4月に出版された時に読んだ。