金平・海老原コンビの物語2013/08/30 06:14

 百田尚樹さんは、『「黄金のバンタム」を破った男』に、ボクサーを引退して トンカツ屋を開いた金平正紀が、アルバイトに応募してきた海老原博幸を見て、 即座にトンカツ屋を畳み、馬小屋を改造したジムで、二人で世界チャンピオン を目指したという伝説を書いている。 その金平・海老原コンビがようやく掴 んだチャンスが、昭和38(1963)年ファイティング原田をバンコクのリター ン・マッチで破って、世界フライ級チャンピオンに返り咲いたタイのポーン・ キングピッチの防衛戦だった。 9月18日東京体育館で、海老原は1ラウンド 2分7秒、鮮やかな左ストレートでポーンをノックアウトし、日本人3人目の 世界チャンピオンとなる。

 しかし、海老原博幸もまた短命王者に終わる。 4か月後の昭和39(1964) 年1月、バンコクのラジャダムナム・スタジアムで行われたリターン・マッチ で、彼もまたポーンに敗れることになる。 海老原は2ラウンドにダウンを奪 ったが、スリップと判定され、15ラウンドを戦った末に、判定で涙を呑んだ。  ホームタウン・デシジョンだった。

 百田尚樹さんは、この試合で、海老原は何者かにリングシューズの中に苛性 ソーダを入れられたといわれている(硝酸という説もある)、と書いている。 試 合が終わってリングシューズを脱いだ海老原の足の裏はずるりと剝けていたと いう。 後年の「毒入りオレンジ事件」は、もしかすると、この時の苦い経験 が元になっていたのかもしれないとも、百田さんは指摘している。

 海老原の弱点の一つは、拳の骨だった。 あまりに強力なパンチに自らの拳 が耐え切れず、試合中に指を骨折したのは七度、しかし彼は一度も試合を放棄 していない。 「海老原、左が折れても、右でやります。死ぬまでやる」と言 ったという。 海老原の拳の骨が丈夫だったなら、原田以上の偉大なボクサー になっていたという専門家も少なくなく、今ならセラミックを埋め込む手術で カバーできただろう、と百田さんは書いている。