死の味のする生の幸福2013/08/06 06:32

 「風立ちぬ」の章。 節子はサナトリウムに入院以来、安静を命じられて、 ずっと寝ついたきりだった。 院長は私に、思ったよりも病竈(びょうそう) が拡がっていて、病院中でも二番目ぐらいに重症かも知れんよ、と言った。 す こし風変りな愛の生活が始まった。 「私達の日常生活のどんな些細のものま で、その一つ一つがいままでとは全然異なった魅力を持ち出すのだ。私の身近 にあるこの微温(なまぬる)い、好い匂いのする存在、その少し早い呼吸、私 の手をとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取り交 わす平凡な会話、――そう云ったものを若し取り除いてしまうとしたら、あと には何も残らないような単一な日々だけれども、――我々の人生なんぞという ものは要素的には実はこれだけなのだ。そして、こんなささやかなものだけで 私達がこれほどまで満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にして いるからなのだ。と云うことを私は確信していられた。」

 「それらの日々に於ける唯一の出来事と云えば、彼女がときおり熱を出すこ と位だった。それは彼女の体をじりじり衰えさせて行くものにちがいなかった。 が、私達はそういう日は、いつもと少しも変らない日課の魅力を、もっと細心 に、もっと緩慢に、あたかも禁断の果実の味をこっそり偸(ぬす)みでもする ように味わおうと試みたので、私達のいくぶん死の味のする生の幸福はその時 は一そう完全に保たれた程だった。」

 そんなある夕暮、私はバルコンから、そして節子はベッドの上から、向うの 山の背に入って間もない夕日を受けて、そのあたりの山だの丘だの松林だの山 畑だのが、半ば鮮やかな茜色を帯びながら、半ばまた不確かなような鼠色に徐々 に侵され出しているのを、うっとりとして眺めていた。 「私達がずっと後になってね、今の私達の生活を思い出すようなことがあった ら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」 「本当にそうかも知れないわね」彼女はそう私に同意するのがさも愉しいかの ように応じた。

サナトリウムの、秋から冬2013/08/07 06:30

 秋になった。 節子の父が来て二日間滞在した後で、絶対安静の日々が続い たが、その危機は一週間ばかりで立ち退いた。 バルコンに出ると、「嘗(かつ) て私達の幸福をそこに描き出したかとも思えたあの初夏の夕方のそれに似た― ―しかしそれとは全然異った秋の午前の光、もっと冷たい、もっと深みのある 光を帯びた、あたり一帯の風景を私はしみじみと見入りだしていた。あのとき の幸福に似た、しかしもっともっと胸のしめつけられるような見知らない感動 で自分が一ぱいになっているのを感じながら……」

 「冬」の章、それは1935年10月20日に始まる日記体になる。 午後、病 人を残して、サナトリウムを離れる。 田畑を抜け、雑木林を越え、その山の 窪みにある人けの絶えた狭い村の中を一まわりした後、八ヶ岳山麓一帯に拡が っている落葉松林の縁(へり)を、もうそろそろ病人がもじもじしながら自分 の帰りを待っているだろうと考えながら、心もち足を早めてサナトリウムに戻 るのだった。

 10月27日。 そして気づく、この山を今と反対の側から見ていたことを。  「丁度二年前の、秋の最後の日、一面に生い茂った薄の間からはじめて地平線 の果てに、この山々を遠くから眺めながら、殆ど悲しいくらいの幸福な感じを もって、二人はいつかはきっと一緒になれるだろうと夢見ていた自分自身の姿 が、いかにも懐かしく、私の目に鮮やかに浮んで来た。」

 12月5日。 夕方、病人が不意に「あら、お父様」とかすかに叫んだ。 目 を赫かせた彼女は、「あの低い山の左の端に、すこうし日のあたった処があるでしょう?」「あそこにお父様の横顔にそっくりな影が、いま時分になると、いつ も出来るのよ……ほら、丁度いま出来ているのが分らない?」「もう消えて行く わ……ああ、まだ額のところだけ残っている……」 「お前、家へ帰りたいのだろう?」私はついと心に浮んだ最初の言葉を思わず 口に出した。 「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」と聞えるか聞えない位な、かすれ た声で言った。

一年後「死のかげの谷」で2013/08/08 06:18

 「死のかげの谷」の章は、翌1936年12月1日、K…村にて、の日記で始ま る。 殆ど三年半ぶりで見るこの村は、すっかり雪に埋もれていた。 私は、 夏を過ごしに来る外人たちが「幸福の谷」と云っている別荘地の一番はずれに 山小屋を借りた。(「幸福の谷」ハッピィ・バレーは、軽井沢の万平ホテルの裏 に広がる昔ながらの別荘地。ここらを避暑地に開拓した宣教師たちがその美し さ感激して名付けたという。) 炊事の世話を頼んだ村の若い娘とその弟が、小 さな橇に私の荷物を積んで、これからこの冬を其処で過そうという山小屋まで、 引き上げて行ってくれた。

 こんな人けの絶えた、淋しい谷の、一体どこが「幸福の谷」なのだろう。 「死 のかげの谷」、そう、よっぽどそう云った方がこの谷に似合いそうだ。

 12月2日。 それは去年のいま頃、私達のいたサナトリウムのまわりに、丁 度今夜のような雪の舞っている夜ふけのことだった。 私は何度もそのサナト リウムの入口に立っては、電報で呼び寄せたお前の父の来るのを待ち切れなさ そうにしていた。 やっと真夜中近くになって父は着いた。 しかしお前はそ ういう父をちらりと見ながら、唇のまわりにふと微笑ともつかないものを漂わ せたきりだった。 父は何も云わずにそんなお前の憔悴し切った顔をじっと見 守っていた。 そうしてはときおり私の方へいかにも不安そうな目を向けた。  そのうちに突然お前が何か口ごもったような気がした。 傍に寄ってゆくと、 聞えるか聞えない位の小さな声で、「あなたの髪に雪がついているの……」とお 前は私に向って云った。

 12月7日。 集会堂の傍らの、冬枯れた林の中で、私は突然二声ばかり郭公 の啼きつづけたのを聞いたような気がした。 そのあたりの枯藪だの、枯木だ の、空だのは、すっかり夏の懐かしい姿に立ち返って、私の裡(うち)に蘇り 出した。……けれども、三年前の夏の、この村で私の持っていたすべての物が 既に失われて、いまの自分に何一つ残っていない事を、私が本当に知ったのも それと一しょだった。

「薩長」と「反薩長」、塾生の出身地は?2013/08/09 06:29

 それを考えるきっかけになったのは、俳誌『夏潮』8月の本井英主宰と井上 泰至さんの対談「虚子の内なる江戸(二)」を読んだことだった。 井上泰至さ んは、防衛大学校教授で日本伝統俳句協会常務理事、最近『子規の内なる江戸 ―俳句革新というドラマ』(角川学芸出版)を出版された。 対談は、虚子の「徴 兵忌避」、夏目漱石もそうだったが、明治26,7年頃の「日本軍」というのはつ まり「薩長軍」なわけで、佐幕方としては行きたくないという話から始まり、 薩長の新政府に対して会津や松山などがどういう感じを持っていたかが話題に なっている。 昭和の初年ぐらいまでは、江戸の藩の意識というのを十分に考 慮しないとわからないことが多い。 薩摩、長州、勝った側はそう文化をかえ りみなくてもいいけれど、金沢や松山のようなところは、逆に文化によってリ ベンジするようなところがある。 松山の人脈を中心にした「新聞の人脈」は、 負けた側のグループの人たちだ。 薩長の侍というのは、江戸の元々の文化に 弱くて、言わば田舎者ばかりだったが、松山人にとって、江戸の文化を語り合 える教養という点については、江戸はそう遠くない場所だった、というのであ る。

 そこから私が連想したのは、初期の慶應義塾の塾生の出身地のことだ。 福 沢の中津藩出身者、築地鉄砲洲の中津藩中屋敷内に20坪ほどの紀州塾まで新 築した紀州出身者、維新戦争後に入塾した越後長岡藩の出身者、この三藩人を 慶應義塾の三藩閥と呼ぶ者もいると、富田正文先生の『考証 福澤諭吉』上(岩 波書店)にある。 中津はともかくとして、紀州は御三家の一つだし、越後長 岡藩も戊辰戦争で痛い目に合った。 三藩閥以外の塾生の出身地は、どうなの だろう。 しかし、そういう統計を見た記憶がなかった。

慶應義塾には、「入社帳」というものがある。 入学者の氏名、年齢、出身地、 父兄・保証人氏名などを記録した帳簿だ。 文久3(1863)年春から明治34 (1901)年11月まで、延べ2万名近くが記載されているという。 昨年10月 末、『慶應義塾150年史資料集―基礎資料編』第一巻「塾員塾生資料集成」が 刊行された。 「入社帳」と、在学時の成績表である「学業勤惰表」、卒業後の 住所や職業が記載されている「塾員名簿」(明治23年以降作成)の三種類のデ ータを、個人別にまとめて利用しやすい人名資料集にしたものだという。 紙 幅の制約で、明治16年までに入学した者に対象を絞らなければならなかった が、それでも約5,000名が収録されているそうだ。 統計にはなっていないか もしれないが、これを利用すれば、上の私の問題は解決できるだろう。 だが、 この本、私はまだ見ていなかった。

中津、紀州、江戸東京、岡山、愛知、土佐の順2013/08/10 06:31

 それで手元にある本で、利用できるものはないかと考えた。 丸山信編著、 富田正文監修『福沢諭吉とその門下書誌』(慶應通信・1970年)、第2部「門下 生の著作と略歴」を見てみる。 自身の著作と研究書、伝記のある、名を成し た人物に限って収録されているから、全体像は見えないが、ある程度は推測で きるのではないか。 鉄砲洲時代(前期新銭座時代を含む)文久3年春より慶 応4年3月までが、33名、番外6名の計39名、新銭座時代(後期新銭座時代) 慶応4年4月よりが51名、三田移転より明治13年末までが93名、番外13 名の計106名、ここまでの合計で196名が収録されている(番外というのは、 「入社帳」記載順序番号のない、つまり「入社帳」には名前のない人)。

 「入社帳」からと思われる出身地、父または兄弟、入学の時の主人または証 人の記載がある。 しかし、これがけっこう難物で、「参州」「三州」「勢州」、 「三河額田県」「名東県」「飾摩県」「筑摩県」「小田県」「若松県」など、場所が パッと浮ばない地名もある。 北海道開拓の先駆者、依田勉三の入学した明治 7年頃になると、「足柄県第5大区11小区那賀郡大沢村15」などという「大区・ 小区」の表示が行われていたこともわかる。

 196名の内、多少あやしいけれど、豊前・中津22名、紀州・和歌山16名、 武蔵江戸・東京10名、備前・岡山9名、三州・愛知8名、土州・高知8名、 豊後・中津を除く大分6名、安芸備後・広島6名、長州・山口5名、勢州・伊 勢5名、小倉5名、薩摩・鹿児島4名、静岡4名、但馬・豊岡4名、陸中・南 部4名、奥州4名、安房上総4名、越後・長岡3名、肥前・長崎佐賀3名、上 野・群馬3名、阿波・徳島3名などと数えられる。 三藩閥の一つといわれた 「越後・長岡」が少なかった。 薩長も、そう多くはないけれど、いることは いたのだった。 土州・高知の8名の方が多いあたりに、「反薩長」の気分が 出ているのかもしれない。 ちなみに鹿児島出身者は、谷元道之、田尻稲次郎、 寺師宗徳、柏田盛之、長州は宇佐川秀次郎、伊藤欽亮、島田壮介、番外の日原 昌造と藤井清だった。 伊藤欽亮と日原昌造以外は、名前を聞いたことがなか った。