富士山の神様たちの物語 ― 2013/11/16 06:23
ここで五合目小御嶽神社に祀られている木花之開耶姫の姉・磐長姫命、そし て北口本宮冨士浅間神社と、富士山本宮浅間大社のご祭神、三人の神様との計 四人の神様にまつわるエピソードが、今年の4月の当日記(13日~18日)で 取り上げた綛野和子さんの『日本文化の源流をたずねて』(慶應義塾大学出版会) に書かれていたので、引いておきたい。 4月16日の「早乙女の禊、棚機つ女・ 兄媛(えひめ)と弟媛(おとひめ)」から、つづく話である。
「薩摩の吾田(あた)、今の笠沙町の笠沙御前(かささのみさき)の所に大山 祇神(おおやまつみのかみ)というこの日本列島の精霊、デーモンやスピリッ トの大親分に当たる神様がおられて、この神様には二人の娘さんがあり、兄媛 (えひめ)の石長媛(磐長姫・いわながひめ)を弟媛(おとひめ)の木花開耶 媛(このはなさくやひめ)が助けて棚機(たなばた)で機を織って、神様の来 られるのを待っていました。そこへ神武天皇の直系の祖先である邇々芸命(瓊々 杵尊・ににぎのみこと)という方が行かれて、石長媛の顔が醜くゴツゴツとし ているので、それは嫌だと言って、木花開耶媛の桜の花のように美しい顔だち の弟媛をお召しになって結婚なさいました。それを知って大山祇神が大変お怒 りになり、「こんなことをなさるのだったら、これはルール違反であるから、命 (みこと)のお命は決して長くはないであろう、短いであろう」と呪いをかけ るのです。それによって、天皇のお命は短いのだと『古事記』に書かれており ます。」
長部日出雄さんは『「古事記」の真実』(文春新書)に、『古事記』神代篇の早 期の叙述と、活火山島である桜島を取り囲む湾岸一帯から、火山群の霧島山に かけての地形とのあいだに、切り離せない関連があるように感じられてならな い、と書いている。 日本人の原母ともいうべきで伊邪那美命(いざなみのみ こと)が、火の神を生んだことで御陰(みほと)を焼かれて病み臥し、黄泉国 (よみのくに)に去る。 それを追って行った夫・伊邪那岐命(いざなぎのみ こと)が、黄泉国で見た妻の姿の表現は、さながら大噴火のあと、溶岩流や火 砕流が流れ下る山容を象徴しているかのように思われるという。
そして、木花之佐久夜毘売である。 高天原から天降った天孫・邇邇芸命が、 国津神である大山津見神の女(むすめ)、木花之佐久夜毘売を娶って作った三人 の子が、火照(ほでりの)命、火須勢理(ほすせりの)命、火遠理(ほおりの) 命と名付けられた。 木花之佐久夜毘売は、邇邇芸命と最初の一夜だけの婚姻 (まぐわい)で懐胎した子を、だれか国津神の子であろうと邇邇芸命に疑われ たのに激怒し、自分が籠った産殿(うぶや)に火を放たせ、猛火の中で火照命 を出産する。 「火照」は産殿に放った火が「燃え盛る」さま、「火須勢理」は 「燃え進むさま」、「火遠理」は「衰えたさま」を意味し、それぞれ産殿の火勢 がそのような状況のさいに産まれたことを示す名前である、という。
御師(おし)住宅と「富士講」の発展<小人閑居日記 2013.11.17.> ― 2013/11/16 16:37
富士山の世界文化遺産決定は、信仰・芸術の源泉としてということだった。 北口本宮冨士浅間神社の後、御師(おし)住宅、旧外川家住宅を見学した。 吉 田は、江戸を始めとする関八州(関東)から富士山への拠点として便利だった ので、北口(吉田)に御師が出現した。 神社の門前の上吉田地域、金鳥居(か などりい)から神社へ向かう現在「吉田の火祭り(鎮火祭)」の通る南北方向の 道路の左右に、かつては86軒の御師住宅が立ち並んでいたという。 吉田の 御師は、富士山そのものをご神体として信仰するため「富士御師」とも呼ばれ、 富士山に信仰登山する人々(道者)に自らの住宅を宿坊として提供し、登山の 世話をするとともに、祈祷によって寺院や神社に参詣する人々と神仏の仲立ち をする宗教者だった。
江戸から吉田までは健脚でも片道3日、吉田から頂上までは少なくとも往復 2日、好天に恵まれても合計8日間の旅になるという時間と、多額の費用もか かった。 そこで、庶民に信仰が広がるにつれ、お金を集めて代表を選び、皆 の祈祷を託す「講」の仕組みを利用するようになる。 こうして近世には、江 戸を中心に富士山信仰のための「講」、「富士講」が成立した。 「江戸は広く て八百八町、講は多くて八百八講。江戸に旗本八万騎、江戸に講中八万人。」と いわれた。
旧外川家住宅の見学、裏に住むという分家のお嫁さんの説明が、素晴らしか った。 当初の「富士講」は、上の事情で、先達(せんだつ)と代表だけの二、 三人での参拝だったので、狭い御師の家にも泊まれたが、江戸時代も末期にな り、道路や宿場などが整備されて、庶民の旅行が可能になるにつれ、『富士講』 が盛んになって、代表だけでなく一般の参詣登山になると、御師住宅も増築さ れたという。 観光旅行化の傾向もあったのか、酒や豪華な料理が出されたら しい。 山役銭とかいう入山料も、1000円どころではない金額だったので、吉 田の町は発展し、強力(ごうりき)などの収入も、近在の村々を潤したようだ。
(都合により16日にアップします)
最近のコメント