子供への手紙〔昔、書いた福沢11〕2013/11/26 06:48

   等々力短信 第234号 1981(昭和56)年11月15日

単身赴任のニューヨークから

 単身赴任が多いようである。 フジ三太郎でも、単身赴任里帰りのオッサン が、新幹線の車内に洗濯物をばらまいた。

 銀行勤めの友人が名古屋に転勤した。 単身で行くという。 留守宅には、 友人の母上と奥さん、5年生の女の子と1年生の男の子が残る。 行く方も、 留守を守る方も、何かとご苦労が多かろう。

 夜中にベッドの中でひらめいた。 メモせずに覚えていて、栄転祝のいたず らをした。 便箋、封筒、ハガキ、切手、それに奥さんと子供さんの宛名ラベ ルをセットにして送った。 筆まめの第一条件は、道具を身近に整えておくこ とにあるようだから。

 『戦艦大和ノ最期』の著者で日本銀行員だった吉田満氏は、ニューヨークに 単身赴任した2年間、毎日総計772通の絵ハガキを家族に出し続けた。 「海 を隔てていても父がすぐそばに居るようだったと母は言う」と、ご子息が遺著 『戦中派の死生観』のあとがきに記している。

   等々力短信 第235号 1981(昭和56)年11月25日

谷内六郎さんの「ホノルル通信」

 江國滋さんがラジオでしゃべったのを聞いて、新潮ムック『谷内六郎の世界』 を買ってきた。 「ホノルル通信」なるものを見たくなったからだ。

 週刊新潮の表紙を創刊以来25年、1,300枚以上も描き続けてきた谷内六郎さ んが突然亡くなったのは今年の1月だった。 ホノルル通信」はその谷内さん が、一昨年中学2年生でハワイに留学させた長男太郎君に書き送った百通をこ す手紙である。 谷内さんは日本の教育のありように批判的だった上、このセ カセカした日本の社会そのものが、どんな子供にもある創造的な才能の芽を、 つみとってしまうことを恐れていた、という。

 「太郎君 相変らずだよ 静か 平和 5月3日夜」といった説明とともに、 お得意の暖かみのある絵で、谷内家の日常生活がハワイの太郎君に伝えられて いる。 この、なんともほのぼのとした良さを持つ絵入りの手紙が、ホノルル 東京間の距離をどれだけ縮めたことだろうか。

   等々力短信 第236号 1981(昭和56)年12月5日

留学中の息子達への手紙

 「折々人の家に行て、ダンシング抔もあらば勉て共にダンスすべし(中略) 彌々開国と決定する上は、ダンシングの一事に至るまでも俗を共にすること緊 要なり。」 明治16(1883)年10月17日、アメリカ留学中の息子達へ福沢諭 吉が出した手紙の一節である。 (註・開国は、居留地を廃止、外国人が日本国内に自由に住めること。)

 この年から5年の留学期間中、筆まめな福沢が書いた長男一太郎宛62通、 次男捨次郎宛17通、両名宛35通の計114通の手紙が、『福澤諭吉全集』17,18 巻に収められている。 小泉信三さんはこの一連の手紙を「子を思う親の真情 を、その賢さと痴かさとを併せ露呈したものとして、人の親たるものの心を打 たずには措かぬ」と書いた。

 MITを卒業した捨次郎と違って、在米中志望を農学、実業学校、文学と変え、 正規の証書を得られなかった内気で非社交的な一太郎は、福沢の心配の種だっ た。 英語英文一芸でも日本で立派に独立できるなどと、この一太郎を励ます 手紙が多い。 巨人もまた人の親であった。