高橋誠一郎さん〔昔、書いた福沢12〕 ― 2013/11/27 06:31
等々力短信 第243号 1982(昭和57)年2月25日
福沢の身近で三年
高橋誠一郎さんがなくなった。 明治17(1884)年生れ、97歳、数年前ま で、福沢諭吉協会の土曜セミナーに出て来られた。 当日のスピーカーの講演 を聴いたあとで、感想を述べられる。 話し出すと止まらず、周囲の心配をよ そに20分も続くといった調子であった。
バリバリの福沢研究者の名講演も、高橋さんの「福沢家の広くて静かな書庫 に一人入りこんで、手当り次第雑多な本を書架からぬき出して読んだものだ。 福沢先生が時折顔を出して『何か面白いものが見つかったか』と声をかける。 実は先生に見せられない草双紙なども読んでいた」といった体験談の前には、 すっかり色あせてしまったものだ。
高橋さんが慶應に入ったのは明治31(1898)年、13歳の時だから、3年ほ どを福沢の身近で過したことになる。 われわれは長生きそれ自体が価値であ ることを示した記憶力抜群の生き証人を失った。
等々力短信 第244号 1982(昭和57)年3月5日
高橋誠一郎さんのユーモア
高橋誠一郎さんのスピーチには独特のユーモアがあった。
若い時、留学中の英国で結核をやっている。 「私は毎日病人のような気持 で生活しておりまするが、間もなく八十になろうといたしております」
「私はたった一度福沢先生が外国人と話しておられるのを聞いた。 相手の マコーリというユニテリアンの宣教師は英語でしゃべっておる。 福沢先生も 英語をしゃべっているつもりかもしれないが、日本語の中に変な発音の英語が 二つ、三つ入っておるだけだ。 それでちゃんと相手にわかるのだから、福沢 先生ほどの人になると偉いものだと思って感心しておった」
天皇在位五十年のお祝いに芸術院長、最年長者として「陛下なんかこの高橋 から見ればまだ春秋に富んでいらっしゃる。 五十年なんてケチなことをお祝 いになってちゃダメだ。 祝うなら百年をお祝いになって、ただし、その時は 必ず高橋を招んでいただきたい。」
等々力短信 第245号 1982(昭和57)年3月15日
高橋誠一郎文部大臣
高橋誠一郎文部大臣によって教育基本法と学校教育法が公布されたのは昭和 22(1947)年3月31日で、翌日には六三新学制による小学校、中学校があわ ただしくスタートした。 それにはスタッダード博士を団長とするアメリカ教 育使節団の人権尊重と機会均等を求める報告書にもとづいて、GHQが六三制 の早期実施を強く迫っていたという事情がある。
私が小学校に入ったのは、それから一年後の昭和23年で、学校は過渡期の 試行錯誤の中にあった。 フラッシュ・バックすれば土盛りした奉安殿跡、新 制中学の同居と二部授業、ガリオアのミルク、ひらがな先習カタカナ無視、自 由研究、グループ学習、子供議会、という時代である。
高橋さんがなくなって、初めて教育基本法を読んだ。 そして、教育基本法 の精神や制定前後の事情がもっと研究されてもよいと思った。 それは私たち の受けた、そして現在の、教育の枠組を決めたものだから。
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