吉田茂と『帝室論』〔昔、書いた福沢13〕2013/11/28 06:41

   等々力短信 第255号 1982(昭和57)年6月25日

武見太郎さん

 武見太郎さんといえば、ケンカ太郎、ゴリ押しの印象だった。 先日、ある 会で武見さんの講演を聴いて、著書も読み、考えを改めた。 牧野伸顕伯の長 女が吉田茂夫人で、孫が武見夫人である。 吉田、武見両氏とも、マスコミに さんざん叩かれたのも因縁かもしれぬ。 最近、吉田さんはだいぶ名誉を回復 したが、武見さんはどうなるだろう。

 武見さんは医師会以前の四十代前半に、大きな仕事を残している。 それは 吉田茂の政治に重要なかかわりを持ったことだ。 優秀な開業医として、学界、 政、財、官界に豊富な患者人脈を持っていた武見さんは、その人脈をフルに活 用して吉田さんに協力したのである。

 主な一つは銀座(教文館)の武見診療所開設から支援した岩波茂雄につらな る岩波文化人達であり、もう一つは理研を中心とする科学者集団である。 吉 田内閣の政策決定、ひいては現在に至る日本の方向づけに、このブレーンの果 した役割は、まことに大きい。

   等々力短信 第256号 1982(昭和57)年7月5日

国の存亡をかけた修羅場で

 武見太郎さんの話や、『戦前戦中戦後』(講談社)、『武見太郎回想録』(日経) といった本の面白さは、国の存亡をかけた修羅場で吉田茂、牧野伸顕といった 人物が、どういうやりとりをしたか、そこに立会った臨場感にある。

 総理大臣になることが決った時、「自信がおありですか」とたずねる武見さん に、吉田さんは「戦争で負けて、外交で勝った歴史はある」とキッパリいった そうだ。

 日本を何から復興すべきかということを、武見人脈のブレーン連中が議論し て、まず鉄鋼の自主生産からということになった。 しかし、GHQは日本の 鉄鋼生産の再開を絶対に許可しない。 行きづまって、次善の策を考えようと いうことになった時、吉田さんは「いちばんむずかしい問題は、私がやります」 といって、トルーマン大統領に長電話で談判し、許可を取ってしまった。 こ れが、後の経済発展の基礎になったのである。

   等々力短信 第257号 1982(昭和57)年7月15日

『帝室論』と高橋誠一郎文相

 吉田内閣の時、天皇陛下から、民主主義の時代に国民と皇室の関係はどうな ければならないかというご下問があった。 即答できずに、「本来なら切腹だ」 と、真青な顔で官邸に帰ってきた吉田さんに、福沢諭吉の『帝室論』のことを 話したのが、武見太郎さんだった。

 早速『帝室論』を読んだ吉田首相が、小泉信三さんに文部大臣を頼もうとい い出す。 使いの武見さんに、小泉さんは戦災のけががまだ治っていないから と断わる。 それでは高橋誠一郎さんだということになり、武見さんは「先生、 福沢の弟子として、こういう時に福沢の遺志が政府に伝わるのは非常にいいこ となので、それをする義務は先生にだってあるでしょう」という殺し文句を使 って、高橋さんを官邸に連れ込む。

 「帝室は政治社外のものなり」「我帝室は日本人民の精神を収攬するの中心な り」「帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催ふす可 し」。 今年は『帝室論』百年である。