渋沢栄一と福沢諭吉〔昔、書いた福沢14〕2013/11/29 06:42

   等々力短信 第294号 1983(昭和58)年8月5日

時代を動かした四つの瞳

 渋沢敬三さんの仕事にひかれて、あれこれ考えていると、やはり祖父渋沢栄 一のことに、ふれないわけにはいかない。 渋沢栄一の生涯も、波乱万丈の興 味あふれるものだ。

 渋沢栄一は、天保11(1840)年、埼玉県深谷の近くの血洗島(ちあらいじま) という所の大きな農家に生れた。 ちょうど幕末動乱の時代で、倒幕をめざし 横浜焼打ち計画を建てる過激派に育つ。 その計画が露見して幕吏に追われる 身となり、一橋慶喜家に逃げこむ。 ここで持ち前の企画と実務の才能を発揮 して、だんだん重用される。 慶喜が将軍になって、三年前の倒幕運動家は、 皮肉にも幕臣になってしまう。 慶應3(1867)年慶喜の弟徳川昭武のフラン ス留学に随行する。 この一行のことは、NHKテレビの大河ドラマ『獅子の 時代』で、ご覧になった方も多かろう。 フランス滞在中、幕府が瓦解、幕末 の戦乱に巻き込まれずにすむ。 維新後、徳川家が小さくなった静岡藩で、フ ランスでみてきた株式会社を早速設立するなど経営の才をあらわしていたが、 請われて大蔵省に出仕、明治6(1873)年、民間に転じ、第一国立銀行総監役 になる。 以後、日本資本主義の基礎をつくる仕事に深くかかわった。 生涯 に関係した会社が5百余、非営利事業が6百余、それも名前だけ出したという ようなものは、ほとんどなかったという、働きづくめの92年の一生を昭和6 (1931)年に終える。

 渋沢栄一で興味ひかれるのは、幕末の7、8年に幕府が欧米各国に派遣した 大小6回の使節団のなかで、なぜ渋沢栄一と福沢諭吉だけが、明治をリードす るだけの観察、見聞をなしえたかという疑問である。 この問題は、発展途上 国のモデルになるという意味でも、研究に値するテーマだと思うが、思いつく まま、二人の共通点をあげれば、一、ともに迷信をからかうなど、子供のころ から科学的精神を持っていた。 二、旺盛な好奇心の持ち主である。 三、筆 まめな記録者であった。 四、表面にあらわれた現象だけでなく、それを動か している組織や精神に目を向ける眼力を持っていた。

 福沢諭吉が、蘭学の修業から西洋についての予備知識を持っていたのにくら べ、渋沢栄一には、それがなかった。 わずかに一橋家での行政実務の体験が あっただけで、この人本来の探究心、吸収力、洞察力が、いかに強烈であった かは、想像を絶する。