自由で型破り、創造的で反骨精神のある人びと ― 2014/03/01 06:34
モダニズムの資料を蒐めた西村康樹さんの話には、いろいろなエピソードが 出て来た。 三菱の岩崎がパトロンで日本にフィルハーモニーをつくった山田 耕筰の田園調布の家に、石井漠や東郷青児(後にモンブランの絵を描く)が居 候をしていた。 そのパトロンが田園調布開発をした渋沢栄一に代った。 東 郷青児が竹久夢二の下絵を描いていて、その奥さんに手を出す事件を起した。 江戸川乱歩原作、直木三十五唯一の映画監督作品『一寸法師』に主演して最初 に明智小五郎を演じたのが石井漠だった。 石井漠の代表作『山に登る』の題 字を谷崎潤一郎が書いた。 風刺漫画の須山計一などプロレタリア系の人たち も自由が丘に住んだ。 前衛的で、反骨精神があり、アナーキーな人たちが、 この街に集ってきたらしい。 二十代、三十代はメチャクチャだった人たちが、 七十過ぎると勲章をもらうようになる、という話が面白かった。
秋田人脈のほかに、ヨーロッパ帰りのパリ人脈もいて、洒落た物を扱う商店 もできてきた。 亀屋万年堂も、モンブラン(迫田千万億(ちまお)創業)も、 初代はパリに行っている。 ナボナは和菓子なのに洋菓子のテイストがあり、 全国で知らない人のないケーキのモンブランには和栗のテイストがある。 そ のベースの上に、辻口博啓のモンサンクレールやスイーツ・フォレストという、 二度目のヒットがあった。 秋元康が、おニャン子クラブのベースの上に、 AKB48をヒットさせたように。
自由が丘商店街振興組合の理事長をやった前川嘉雄さんは、ヨーロッパの女 性向けの品格のあるリビング雑貨を日本でも、と始めたが、まったくヒットし ない。 それで、そうした生活スタイルを提案するために『私の部屋』という 雑誌を5年間やって、改めて自由が丘に店を出した。 今、日本全国で「私の 部屋」「キャトル・セゾン」など100店舗に発展している。 フェアレディZの生みの親で、東京モーターショウを始めた片山豊さん(104) も自由が丘に住んだ。 アメリカに左遷されて西海岸で日産車を売り込み、左 遷した本社はニューヨークに拠点を設けて追いかけたが及ばず、結局は日産 USAの社長になって、米国自動車殿堂入りしている。 定年退職し、反対派が 社長になって社史からも削られたが、ゴーン社長になって、70、80歳で顧問に 復帰したという。
芸術家や文化人と、商店街の間をつないだのが、藤原写真場の藤原正さんや 自由書房の田中さんだった。 戦後、自由が丘には、本屋が古本屋も含め10 軒、映画館は大手5社の封切館が5館、洋画が1館の6館あった。 映画関係 者も多く住んだという。
「自由が丘モダニズム」研究、発展への期待 ― 2014/03/02 07:18
西村康樹さんによれば、日中戦争から太平洋戦争の時代に「自由ヶ丘」の町 名が問題になり、変更されようとしたのを、地域住民が抵抗して守ったという 話を先輩たちから聞かされたが、それについての記録や史料は見つからないそ うだ。 「自由ヶ丘」から来たと言っただけで、軟弱だと、軍事教練の軍人に 殴られた中学生もいたという。 自由が丘の歴史を書いた本は少ないが、『自由 が丘商店街振興組合五十年史』のような公のものでない本で、西村さんが薦め るのが阿古真理著『自由が丘スイーツ物語』(NTT出版)だ。 そこに過激な 名前を街の人が守り通せた背景に、奥沢に沢山住んでいた海軍の将校たちのバ ックアップがあったからだと言われる、とある。 奥沢は当時、海軍村と呼ば れ、虎ノ門の海軍省と横須賀の海軍鎮守府の中間地という立地条件のよさから、 関東大震災後、多くの海軍士官が住んでいた。 西村さんも、目黒に海軍大学 校があり、奥沢、柿の木坂の10%が海軍の家だったと言っていた。 陸軍と海 軍を比べると、イギリス流の海軍は、自由(リベラル)な雰囲気があったと阿 川弘之さんの本などで知っている。
西村康樹さんは「自由ヶ丘モダニズムとその周辺」の話の最後に、自由が丘 に前衛的な人間が集まり、独自な文化圏が形成された原因として、三つを挙げ た。 (1)行政的に僻地だったこと。 自由が丘は目黒区自由が丘で、自由 ヶ丘文化人会の中心メンバーだった宮本三郎の記念美術館は世田谷区奥沢、田 園調布は大田区だ。 どの区も、自由が丘地域に関する情報を調べたり、収集 したりしてこなかった。 (2)自由が丘という、ネーミングのよさ。 (3) 多摩帝国美術学校(現・多摩美術大学)の存在。 上野毛の多摩美は、昭和10 (1935)年同盟休校事件が発生した帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)から 分離独立して開校した。 初代校長の杉浦非水は、日本における商業美術と広 告表現の先駆者で、三越や地下鉄のポスターなどで知られる(2012. 11. 29.の 当日記、「福沢桃介と杉浦非水・翆子夫妻」参照)。 大正14(1925)年、七 人社を結成。 多摩帝国美術学校図案科会の機関誌『デグゼノ』(エスペント語 で「デザイン」)は、新井泉(せん)教授や七人社のメンバーがかかわって10 号まで発行された日本最初のデザイン雑誌で、日本デザイン史で重要な位置を 占めているが、ほとんど見ることができない。 自由が丘文化人会のメンバー の金丸重嶺(しげね)は、七人社のメンバーで、新興写真を代表する写真家で、 商業写真・広告写真の草分けである。
そんな「自由が丘モダニズム」が、同じ昭和5(1930)年頃に始まった日本 のモダニズム、銀座モダニズムや名古屋モダニズムのようには、今まで取り上 げられず、埋もれてきた。 それは、(1)の行政的に僻地だったためで、行政 と文化は別のものはずだ、この研究を引き継ぎ、掘り起こしてほしい、と西村 康樹さんは結んだ。
近日桂やまと、才紫の「近日息子」 ― 2014/03/03 06:32
2月28日は、第548回落語研究会。 暖かい日だった。
「近日息子」 桂 才紫
「しの字嫌い」 三遊亭 王楽
「竹の水仙」 柳家 小さん
仲入
「豆屋」 桂 文治
「鰍沢」 柳家 権太楼
才紫は丸顔、大声、3月21日に真打になり、89年振りの三代目桂やまとを 襲名するという。 落語研究会は才ころの頃、めくりをやり、笛も吹いてきた、 二ッ目最後のお勤め、炭坑節の出囃子も最後だが、出演も最後にならなければ いいが、と言う。 「近日息子」は、与太郎の噺だ。 倅がへらへら「ただい ま」と帰って来て、隣町の芝居は明日からだ、と。 親父が、昨日が千秋楽だ ったから、準備や何かで、明日ということはないだろう。 でも札に「近日上演仕り候」と出ていたよ。 近日というのは、近々始まるということだ、客に 気を持たせるのだ、商売と同じ、ウチも夏もの、冬ものの反物と、先へ先へと 気をつかうんだ。 そんなこと、朝飯あとだ。 倅に店番をさせ、二、三日通 じのない親父がハバカリへ行く。 お父っつあん、まだ、まだ…、出て来い! と、戸をドンドンと叩く。 何だ、入りたいのか。 倅が柄杓に水、手拭を持 って待っている、先へ先へと気をつかった。 出かかったものも、引っ込んだ じゃないか、お前には、口も利けないよ。 倅が、飛び出して行く。
倅は甘い、甘い、甘すぎたな。 親父が表を見ていると、サビタ先生が駆け 込んで来る。 今、診ますから、横になっていなくては…。 息子さんが、口 が利けないぐらい、とおっしゃるので。 バカバカしくて、口が利けないって、 言ったんです、すみません、改めてお詫びに伺います。 はい、どなた。 葬儀屋です、お誂えの棺桶、お持ちしました、飾りなんか は後で届けます。 倅が鼻歌を歌いながら帰ってきて、もう来てんだ、と。 何 で棺桶なんか来るんだ。 サビタ先生が、首をかしげたから、もう駄目かと思 った、寸法がいろいろあるっていうから、入ってごらんよ。 馬鹿、奥へ行っ てろ。
皆様、お集りで…、上総屋の旦那が亡くなった。 息子が駆けて行き、医者 が来て、すぐ帰って行った。 すると葬儀屋が来た。 あそこは、息子と旦那 の二人だ。 様子をみて、悔やみに行こう。 (頭を下げたまま)元気な旦那 でしたのに、このたびはまことにどーもご愁傷様で、湯屋でお会いしたばかり で、またお会いできたらいいと。 当の旦那が、タバコを吸って睨んでいる。 何か、恨みでもあるのかい。 でも、白と黒の幕が張ってあって、逆さのスダ レに忌中としてある、角々に上総屋の札持った人が立っています。
倅、何だ、これは。 あたい、忌中の脇に、近日と、書いておいたよ。
王楽の「しの字嫌い」 ― 2014/03/04 06:30
派手な縦縞の着物の王楽は、笑点の好楽の倅だ。 プログラムに「王樂」と ある、王楽の指定のような気がした、権太楼も「權太樓」とはあるけれど。 落 語研究会は4年ぶりだという。 お声がけ頂いて有難いといいながらも、プロ デューサーに干されたんじゃないかと聞いたら、干したんじゃなくて、忘れて いたんです、と言われたそうだ。 「しの字嫌い」は、父親好楽の数少ない得意ネタの一つだという。 ほかに 「つる」「手紙無筆」。 父親に習った「しの字嫌い」を、同期の(春風亭)一 之輔と、三三兄(アニ)さんに教えたという(こういうところが、嫌味だ)。 父 はいい加減で、何年も演っていないネタを、ふっと、演ったりする。 みんな はまただというが、自分は肉親だから袖で心配している。 それで、一年に18 回は途中で噺がわからなくなったり、下げを間違ったりする。 「大事な時に 必ず転ぶ男」だ。
清蔵や、清蔵! と、「しの字嫌い」に入った。 旦那が「火を熾(おこ)せ」 というと、清蔵は炭に火を起こせと言わなきゃあ、わからないという。 「煙 草盆持ってこい」は、煙草盆の中の火入れの灰の中に火と言え、提灯に火をつ けたら燃えてしまうなどと、いちいち逆らう。 それを屁理屈というんだ。 屁 は、理屈を言わねえ。 江戸っ子だ、それ、これでも、早い方がいい。
そうだ「アテモン」でもやろうと、始めるが、旦那は清蔵にへこまされるば かり。 昔、太閤様が曾呂利新左衛門を困らせようと「しの字」を封じた、そ の「しの字」を言わぬ賭けをしよう。 芝の神明前の白兵衛さんの親類が死ん だ。 「し」の代りに「よ」を使う、よばのよんめいまえのよろべえさんのよ んるいがよんだ。 一つでも言ったら、給金をやらない。 乗れねえ、無理だ よ。 前貸しを返せ、暇をやるから、出てけ。 おらは言わねえが、旦那が言 ったらどうする。 好きなものを、やる。
今からだ、ポン(と、手を叩く)。 清蔵が、しぶとく「し」を言わないので、 旦那はバラ銭を四貫四百四十四文用意して、数えさせる。 清蔵や! そこに 座れ、きちんと。 (緡(さし)に気付き)「さ」のつくもの出せ、ひ、ふ、み、 よ、と数える。 あんよが、よびれた。 たくらんだな旦那、ソロバン入れて くれ、二貫二百二十二文、また二貫二百二十二文で、いくら。 いわないよ。 よ貫よ百よ十よ文。 「し」ぶとい奴だ。 ほら、出た、この銭、みんなオラ のもんだ。
王楽の「しの字嫌い」、旦那が「前貸しを返せ、出てけ」と嫌味だったり、ま んま炊きの清蔵にも愛嬌がなくて、笑えない。 私がプロデューサーなら、ま た王楽を忘れそうだ。
小さんの「竹の水仙」前半 ― 2014/03/05 06:38
袴を穿いた小さんは、「名人は上手の坂をひと登り」と、左甚五郎が十二で飛 彈の匠に弟子入りし、二十歳でいっぱしの職人になっていたと始めた。 腕が 良くて、京都の伏見に一軒、家をもたせてもらい、朝からごろごろして、好き な酒を飲んでいた。 大内山の宮廷から、珍しいものを作ってみろ、と甚五郎 の腕を試す話がきた。 竹細工で、竹の水仙を作る。 水を含むと、花が開く。 名人だな、と属(さかん・左官)という役名をもらい、その名は江戸まで鳴り 響いた。 暮しは変らぬ、朝から酒を飲んでいる。 江戸へ出てみようか、と 思い立つ。
藤沢まで来た時は、すってんてん、一文無しになっていたが、宿屋に入り静 かな部屋を頼む。 二階の上段の間へどうぞ、大黒屋金兵衛、主(あるじ)で。 よくばった名前だな、茶代、紙代は面倒、立つ時にまとめて払う、胴巻は訳が あって手元に置いておきたい。 酒好きなので、朝一升、昼一升、晩一升、一 日に三升、藤沢は魚がいいだろう、仕度してくれ。 お強い。
毎日、三升飲んで、ごろごろしているから、宿のおかみさんが心配する。 主 は、文無しがあんなに堂々と酒飲んでいられない、と。 言っといでよ、近く の江の島、鎌倉でも、ご見物をと。 主か、あまりきれいなとこじゃないが、 こっちへ入って来い。 江の島、鎌倉見物でもいかがですか、お供します。 腹 が減るし、くたびれる。 カカアの言っているのが、当っているかな、三日に 一度はお勘定を。 くれるのか。 ご冗談を。 もうそろそろ来る頃だと思っ ていた、合計いくらだ。 三分と三朱。 安いな、勉強させたな、私が一朱つ けて、一両で勘定しよう。 ありがとうございます、でもお金が出てこないん ですが。 お金か、金はない、ないんだ。 どーすんです。 どうしよう。 胴 巻があるでしょう。 胴巻はあるけど、金が入っていない、訳があるから、手 元に置きたいと言ったろう。 どーすんです。 どうにかなる、私の仕事で払 いましょう。 仕事は何です。 こっちでいうと、大工。 じゃあ雨漏りがす るんで、屋根を。 屋根は駄目、高い所は危ない。 台所の棚は。 私の棚は、 物を載せると壊れる。 中庭に竹薮があったな、いい竹をノコギリで伐って、 洗面器(桶の方がよさそう)に水を半分持って来てくれ。 持って来たよ、文 無し。 仕事している時は来るな、覗くな、勘定が払えなくなる。
二階で手が鳴って、へーーい。 どうしたい、文無し。 出来たよ。 何な の、竹の棒の上にポッチがある。 竹筒に水を入れて、大黒柱にかけて、昼三 度、夜中に三度、水をやると、不思議が起る。 買いに来たら、町人なら五十 両、侍なら百両、びた一文まけるな。 あるじは、仕方がない、俺が竹っぺら と、お通夜するから、と。
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