末盛千枝子さんの「千枝子という名前」 ― 2014/04/11 06:44
新潮社の『波』では4月号から、末盛千枝子さんの『父と母の娘』の連載が 始まった。 第一回は「千枝子という名前」である。 末盛千枝子さんについ て私は、「友達の友達は皇后陛下」と僭称している。 昔、お造りになった絵本 が、とても素敵だったので、勇気をふるってファンレターを出した。 それで お目にかかったら、大学の同期で、共通の友人もいることが判明した。 4月 1日の入学式でも、日吉の記念館の前でお会いした。
父上は、彫刻家の舟越保武さんで、『波』連載のカットにも、千枝子さんを 描いたと思われる父上のスケッチが使われている。 舟越保武さんは、旧制中 学時代、高村光太郎の訳した『ロダンの言葉』という本を読んで、彫刻家にな ろうと決心したのだそうだ。 そして、東京練馬のアトリエ長屋で千枝子さん が生まれた29歳の時、全く面識のない高村光太郎を突然訪ねて、「彫刻家にな ろうとしている舟越保武というものです。娘が生まれたのですが、名前をつけ ていただけないでしょうか」と頼んだという。 高村光太郎は「女の名前は智 恵子しか思い浮かばないけれど、智恵子のような悲しい人生になってはいけな いので字だけは替えましょうね」と言って、「千枝子」と名付けてくれた。 千 枝子さんはその話を、小さいときから繰り返し、聞かされてきたという。 そ れは智恵子夫人が亡くなって三年しか経っていない、『智恵子抄』が出版された 年のことであった。
まもなく、戦争がはげしくなり、高村光太郎は空襲で作品ごと東京駒込のア トリエを焼かれ、昭和20年5月に花巻に疎開した。 舟越一家もほとんど同 時期に、盛岡に疎開したので、保武さんが高村光太郎に会ったり、彫刻を見て もらったりする機会があった。 三年生になった千枝子さんは、父上に連れら れて、盛岡駅に高村光太郎を見送りに行き、頭をなでられて「おじさんのこと を覚えていてくださいね」と、言われたという。 千枝子さんは、今やっと、 そういう言葉をかけずにはいられなかった人を思い、「あなたにとってあんなに 大切だった智恵子さんの名前をとって、千枝子と名付けて下さったことを本当 に有り難く、とても大切に思います」と心から言える。 七十年もかかってし まった、と書いている。
私は昨年10月6日放送のNHK「日曜美術館」「智恵子に捧げた彫刻」で、 今まで知らなかった事を多く知り、ふたりの愛情の深さに感ずるところがあっ た。 フランスから帰り近代彫刻を志す高村光太郎に、日本の閉鎖的な彫刻界 は冷たかった。 その退廃から光太郎を救い出したのが、智恵子の純愛だった。 ふたりは手に手を取り合って芸術に打ち込み、光太郎は数々の作品を生み出す。 25年を共に暮らした智恵子が亡くなったのは52歳の時だった。 70歳の光太 郎は、花巻の山荘から東京に出て、忘れがたい智恵子の身体の記憶によって、 あの十和田湖の二人の裸婦像を制作するのだ。 末盛千枝子さんは、数年前、 津村節子さんの『智恵子飛ぶ』を読み、光太郎にとって、智恵子がどんなに大 切だったかが胸に沁みて、泣いたという。 そして二人の芸術家が共に生きる という緊張感も智恵子が精神に異常を来す原因の一つだったと、光太郎自身『智 恵子抄』に収録された「智恵子の半生」にはっきり書いていると、記している。
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