起草者、千葉卓三郎を追って2014/07/15 06:37

「五日市憲法草案」の起草者、最後に仕上げた千葉卓三郎という人物が、ど ういう人物なのか、初めは謎であった。 その探究をしたのが、当時の色川大 吉研究室副手・江井秀雄さんと卒業生の新井勝紘さんだった。 五日市周辺の 江戸時代の戸籍にあたる宗門人別改帳を探しても、「千葉」という姓はなかった。  文書の中から「千葉」に関するものをたんねんに拾い出し、筆跡鑑定をし、書 きぐせから、署名のないものでも、「千葉」の筆跡に違いないというものを選べ るようになった。 それらを検討して、どうも五日市の人間ではない、よそか ら来た男だとわかった。 たまたま、彼が五日市小学校(当時は勧能学校)の 助教員をしていたというヒントがあった。 しかし五日市小学校には古い文書 が残っていなかった。 開校七十周年記念のパンフレットから、第一代目の校 長が長沼織之丞という東北の仙台藩士で、仙台藩から二、三人ひきつれて、明 治6年頃この学校にやってきたことがわかった。

 それで江井さんと新井さんが仙台市役所へ調べに行った。 仙台は百万近い 都市だが、市役所は懇切丁寧で、それらしい千葉家は、岩手県の境にある志波 姫(しわひめ)という町と、一関市と仙台市に若干あることがわかった。 ま ず小さいところからと、志波姫へ行く。 着いたのが夕方4時近く、役場の人 はそろそろ帰り支度をしていた。 東北の人は愛郷心が強く、はるばる東京か ら研究者がやって来て、千葉卓三郎とかいうどえらい人間の研究をしている、 日本でも二番目か三番目に立派な憲法を書いた男だという。 退庁時間を延期 して戸籍係から助役まで、倉庫に入り込んで、明治の初めからの厖大な戸籍簿 をひっぱり出してきてくれた。 明治5年の壬申戸籍に、千葉宅三郎21歳、 平民、農民が発見された。 「卓」が「宅」だが、問題なかった。

仙台から一関へと役所の戸籍簿を追跡し、千葉宅三郎を調べていった。 戊 辰戦争では白河で激戦があったが、千葉は17歳で自ら志願して東北軍に加わ り、政府軍と戦った。 敗戦後、いったん郷里に帰ったが、藩はとりつぶされ ていて、明治4年そこを離れて、行方不明になった。

江井さんたちは、あきらめず追求を続けた。 子孫の一人が神戸にいるらし いということを手がかりに、80歳の千葉敏雄さんというお孫さんにたどり着く。  入院中の千葉敏雄さんに会い、千葉卓三郎のその後の生き方の記録や履歴書な どを借りることが出来た。 戊辰戦争に敗れた青年はその後、人生をどういう ふうに生きていったらよいか、精神的に非常に煩悶する。 そして当時仙台藩 に影響を持っていたニコライのロシアのギリシャ正教の洗礼を受けた。 お茶 の水のニコライ堂の辺にあった神学校で数年を過した。 しかしギリシャ正教 では、自分の精神的な解決がつかず、カトリックに転換して、ウイグルスやテ ストウィード神父などに影響を受けて、八王子周辺にあらわれる。 カトリッ クは、横浜、東京から八王子へ進出して、さらに五日市へと教線を伸ばしてい た。

千葉卓三郎は、カトリックにも満足できず、キリスト教を離れ、その最も厳 しい批判者である有名な儒者、安井息軒に学ぶ。 さらに横浜に出て、プロテ スタントのメソジスト派のマークレーにも接近し、医学も学んだ。 そこでも 何かをつかもうとしたわけだ。 そして最後に自由民権論にたどりついた。 数 年前から小学校の助教などをしていた五日市の地を、明治13年に永住の地に 定めるのだ。

「五日市憲法草案」の起草者・千葉卓三郎、自由民権運動の挫折も、明治日 本の発展が彼の企図したものと全く違った方向に進んで行ったことも知らずに、 残念ながら明治16(1883)年11月12日、わずか31歳でその多難な生涯を閉 じてしまう。

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