あらためて、ジョージ・ワシントン2014/08/05 06:32

 あらためて考えると、ジョージ・ワシントンについても、何も知らないのだ った。 『ブリタニカ国際大百科事典』を見る。

 [生]1732.2.22. アメリカ、バージニア、ウェストモーランド

 [没]1799.2.14.  アメリカ、バージニア、マウントバーノン

  アメリカ建国期の軍人、政治家。初代大統領(在任1789~97)。バージニア 北部の富裕なプランター(大農場主)の家に生れ、17歳でカルペッパー郡の公 認測量士となった。1753年に先住民族インディアンの鎮撫工作にあたり、54 年にはバージニア民兵軍150人を率いてオハイオ川流域地方に進軍しフランス 軍と交戦して敗北。55年イギリスのE.ブラドック将軍の指揮下にデュケーヌ 要塞に拠るフランス軍の攻撃に参加し敗退。58年にはJ.フォーブス将軍に協力 してデュケーヌ要塞攻略に成功。59年バージニアの富裕な未亡人M.カスティ スと結婚、プランテーション経営に精を出した。

65年の印紙税法施行以後反英的立場を強め、73年の枢密院令と翌74年のケ ベック法により西方への土地投機の機会を奪われて憤慨し、独立を決意。アメ リカ植民地は74年イギリス本国の圧政に対し大陸会議を組織し、第2回大陸 会議によって75年6月15日全植民地軍総司令官に任命。同年7月4日にはア メリカ独立宣言を公布。翌76年春ボストンからイギリス軍を追い出すことに 成功。ニューヨークへ転戦し連敗しながらニュージャージーへ退却。76年12 月トレントンとプリンストンの奇襲に成功し、勝利への転機をつかんだ。一方 77年冬のフォージ渓谷の越冬宿営などで批判を受け更迭の陰謀もめぐらされ た。81年8~10月アメリカ=フランス連合軍を指揮してヨークタウンを攻略、 イギリスのC.コーンウォリス将軍を降伏させた。82年彼を国王に擁立しよう とする動きを断固拒否、83年アメリカ軍を率いてニューヨーク市に凱旋し、軍 務を退いた。

その後マウントバーノンの農園に戻り、4年間を所有地の管理に過ごした。 85年に彼の自邸で開かれポトマック川航行権に関する会議をきっかけに、強力 な中央政府設立の動きがにわかに高まり、87年にはフィラデルフィアで合衆国 憲法制定会議が開かれ、その議長に選出された。89年4月初代大統領に就任し、 財務長官にA.ハミルトン、国務長官にはT.ジェファーソンを据えて、公債の 償還、財政の安定、イギリス軍基地の撤去、ミシシッピ川航行権の確保、イン ディアンの制圧などの国内問題やフランス革命をめぐる複雑な外交問題に取組 んだ。97年三選出馬を辞退してマウントバーノンに引退、所有地の管理に専念 した。98年フランスとの戦争の危機に際して再び臨時編成軍の総司令官に任命 されそうになったが運よく危機は回避された。99年悪性喉頭炎で死去。

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