海軍軍縮会議と堀悌吉、艦隊派対条約派2014/08/22 06:33

 第一次世界大戦後も、列強は相変わらず軍備拡張を続け、それは国家財政を 圧迫していた。 日本は軍艦建造に、国家予算の1/3を使っていた。 軍縮が 懸案となっていた。 大正11(1922)年のワシントン軍縮会議、昭和5(1930) 年のロンドン軍縮会議から太平洋戦争開戦への道のりで、海軍部内で激しい派 閥抗争が展開される。 堀悌吉は随員として、ワシントン軍縮会議では加藤友 三郎全権(海相・大将)を補佐した。 日本は、英米に対して7割の主力艦保 有を主張したが、6割に決まった。 首席随員として参加した加藤寛治中将は 強硬論を主張して、加藤友三郎全権(大加藤)を困惑させた。 8年後のロン ドン軍縮会議には、堀の推薦で山本が随員として参加した。 補助艦の比率は 英米に対して7割は必要という艦隊派の意見が海軍部内では根強かった。 軍 務局長だった堀悌吉は、英米に対しては不戦協調が望ましいという意見を持ち、 会議を成立させるべきという立場で次官の山梨勝之進を補佐した(条約派)。  結局は日米の妥協が成立し、日本は対米6割9分7厘5毛でロンドン海軍軍縮 条約に調印した。 この条約は海軍内部に大きな亀裂を生んだ。 艦隊派が台 頭する海軍内で堀の立場は弱くなり、海軍中央から遠ざけられることになった。 

心配した山本は、海軍省トップの軍令部総長・伏見宮博恭王に、海軍人事を 神聖公明に行い、堀を要職に留めるようにと、直訴する。 日本が国際連盟を 脱退した昭和8(1933)年、堀は海軍中将に昇進したが、翌昭和9(1934)年 艦隊派が主動したいわゆる大角人事で、予備役に編入されてしまう。

池田清著『海軍と日本』(中公新書)を見てみる。 大角人事とは、昭和8 年に海相に就任した大角岑生(みねお)大将が、条約派と目される人材はすべ て海軍部内から一掃、山梨勝之進大将、谷口尚真大将、左近司政三中将、寺島 健中将、坂野常善中将、そして堀悌吉中将を、予備役に編入した人事である。

 この時、堀の予備役編入をロンドンで聞いた山本五十六少将は、「かくのごと き人事が行なわるる今日の海軍に対し、これが救済のために努力するもとうて い難しと思わる。やはり山梨さんがいわるるごとく、海軍自体の慢心にたおる るの悲境にいったん陥りたる後、立て直すの外なきにあらざるやを思わしむ」 と、堀に手紙を送っている。 また山本は時事通信の特派員伊藤正徳に、「堀を 失ったのと大巡の一割とどちらが大事かな。とにかくあれは海軍の大バカ人事 だ」と、酷評したという。 この決定をした海軍に落胆した山本は、ロンドン から帰国後、すぐ堀に会い、海軍を辞めたいと相談した。 堀は「海軍を変え られるのは君しかいない」と、山本を引きとめた。 開戦時の海相嶋田繁太郎 大将(同期、32期)が戦後、「開戦前の時期に堀などが海軍大臣として在任し ていたとすれば、もっと適切に時局を処理していたのではないか」(『大本営海 軍部連合艦隊』(1))と回想しているという。