「明治14年の政変」の共同研究を<等々力短信 第1064号 2014.10.25.>2014/10/25 06:38

「明治14年の政変」が、日本近代のきわめて重要な分岐点になったという思 いが、年々強くなっている。 この政変は、もっと言及され、研究されるべき だと思う。

 国会開設請願運動が高まると政府も立憲政体への移行を決意したが、その時 期をめぐり漸進論の伊藤博文・井上馨と、早期国会開設論の大隈重信が対立し た。 そんな中、開拓使官有物払下げ事件が起こると、大隈に福沢、岩崎(三 菱)と組み民権運動を取り込んだ薩長派打倒の策動があるとして、伊藤らは岩 倉具視らと結び、明治14(1881)年10月、大隈らを罷免するとともに、払下 げを中止し、憲法欽定の方針と、十年後国会開設の勅諭を出して民権派の反撃 の矛先をかわした。 政変の結果、大隈傘下の矢野文雄、中上川彦次郎、尾崎 行雄、犬養毅ら福沢門下の若手官僚もいっせいに追われ、福沢が提唱していた イギリス流の議院内閣制導入の構想は完全に消滅し、日本の進むべき方向はプ ロシャ流欽定憲法採用路線に確定した。 伊藤らの依頼で政府広報新聞の発行 準備をしていた福沢は、翌年3月独立不羈の『時事新報』を創刊することにな る。

 9月20日、福沢諭吉協会の土曜セミナーで、大久保健晴慶應義塾大学法学部 准教授の「近代日本黎明期における蘭学と統計学」を聴いた。 その中で初耳 だったのが、大隈が自分の砦として、明治14年3月会計検査院、5月統計院を 設立していたことだった。 明治16年国会開設の準備に、国会で国務の説明 ができる政府委員として、自らの配下に有能な人材を集め、統計院の調査機能 を利用して情報を収集する狙いがあった。 これより先、明治11~12年に、 大隈から福沢にこれに関して人材の問い合わせがあり、福沢は自身の政治構想 とも一致する動きに、慶應義塾挙げての協力を表明、矢野、中上川、小泉信吉、 尾崎、犬養らが政府に入ることになったのだった。

 わが国の財政が、膨大な借金をかかえて、ほとんど破綻状態にある一つの原 因は、現代日本の公会計が今でも単式簿記を採用し続けていて、つまり金の出 入りの大福帳(損益計算書)だけで、貸借対照表をつくらないことにある。 福 沢が初めて複式簿記を紹介した翻訳書『帳合之法』を出版したのは明治6年だ った。 複式簿記は急速に普及し、明治政府でも一度は積極的に導入、『帳合之 法』から5年後の明治11年、大隈大蔵卿の提案で、各省庁府県が複式簿記を 採用し、複式簿記で帳簿を作り、財務書類を作成していた。 しかし、明治22 年には単式簿記による公会計に戻り、現在に至っている。

 1950年頃から京大の人文科学研究所で、桑原武夫教授を中心にルソーやフラ ンス百科全書の共同研究が成果を挙げた。 先日、早稲田大学で大隈記念室を 見て、早慶両校が協力して「明治14年の政変」の共同研究ができないものか と思った。

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