漱石のゆかりの町から神楽坂へ2014/10/28 06:36

 早稲田大学へは、銀行に入りたての頃、飯田橋支店の手伝いで、奨学金の支 払いに何度か来たことがあったのを思い出した。 早稲田大学の正門を出て、 馬場下町の穴八幡宮へ、古墳に詳しい岡田さんが、ここは前方後円墳の上に建 っていると教えてくれる。 金銀融通の御利益があるというが、金の装飾が目 立つ立派な社だった。 穴八幡の一陽来復のお守りは、昔、中延の家に出入り していたおばさんが毎年頂いて来てくれ、節分の前夜に恵方に合わせて貼る習 慣だった。

 東京メトロ東西線早稲田駅を出た交差点にある小倉(こくら)屋酒店隣の、 夏目漱石誕生地(喜久井町1)の碑を見る。 喜久井町の名は、町方名主だっ た漱石の父直克が維新後区長になって、夏目家の家紋「井桁に菊」にちなんで 名付けたという。 早稲田通りから漱石山房通りに入って、漱石が朝日新聞に 入り作家人生をスタートさせてから亡くなるまで9年間を過ごした早稲田南町 の家、漱石山房跡の漱石公園へ。 漱石のベランダ風回廊を再現した白い建物 や、猫塚、道草庵などがあり、新宿区のつくったビデオテープを見た。 <肩 に来て人なつかしや赤とんぼ>という漱石句碑があった。

外苑東通りに出て、赤松夫妻が下見もしてくれた居酒屋「喜久帆」で昼食。  店主心づくしの松花堂弁当は立派で、いろいろなものが入っており、満腹にな る。 牛込弁天町、和算の関孝和や戦国期の領主牛込氏の墓のある浄輪寺に寄 り、市谷山伏町の林氏墓地へ。 林羅山に始まる江戸幕府の儒学朱子学の家、 81基という墓が並んでいるのを覗く。 このあたり、南榎町、矢来町、市谷甲 良町、北山伏町、南山伏町、橫寺町、箪笥町、二十騎町、細工町、納戸町、払 方町、市谷鷹匠町と古い地名が残っていて、とてもよい。 赤松さんがコピー してくれた夫人の友人・熊岡和子さんの「牛込通信」にそれらの地名の由来が あって、勉強になった。 箪笥町は衣類を納める箪笥ではなく、正保2(1645) 年に具足奉行同心や弓矢槍奉行組同心を住まわせるためにつくった町で、武器 の総称を御箪笥というところからの名だそうだ。 矢来町は、寛永5(1628) 年、後の大老酒井讃岐守忠勝が徳川家光から下屋敷を拝領し、屋敷の周囲に土 手を築き、竹矢来を組んだことに由来する。 払方町、納戸町、細工町は、古 くは天龍寺の境内で、元和3(1617)年同寺の火災の跡地を、払方同心、御納 戸同心、御細工同心が町屋敷に拝領したところからの名という。 払方は、将 軍からの下賜品一切を扱う江戸幕府の役職、御納戸は、将軍の財産(金銀、衣 服、調度品)の出納、大名・旗本からの献上品を扱い、御細工は、江戸城内の 建物や道具の製作・修理を行なった。 南榎町、牛込榎町は、この地に十抱え もある大きな榎の木があったことによる。 二十騎町は、同じ天龍寺の境内だ ったのが、御手先組与力二組の屋敷地となった。 与力一組十騎ずつ、合計二 十組だったことに由来する。

峰竜太の潜水艦のような奇妙な家の前を通り、中町の宮城道雄記念館へ。 宮 城道雄は、8歳で失明した筝曲家、優れた演奏家で、西洋音楽の要素を邦楽に 導入し、八十絃など楽器の開発や改良するなどして、「現代邦楽の父」とも称さ れているという。 ビデオで「春の海」などの演奏を聴いていたら、とても気 持よく、朝からの散策の疲れも出たのか、少し居眠りをしてしまった。 昭和 31(1956)年6月、東海道線の刈谷駅付近で夜行「銀河」から転落して亡くな ったニュースは、当時中学3年生だった私も、刈谷に叔母がいたこともあって、 鮮明に記憶していた。

牛込城跡という光照寺に寄る。 牛込氏は、赤城山の麓、上野国(群馬県) 勢多郡大胡の領主、大胡氏の出で、北条の家臣になり、赤坂、桜田、日比谷付 近も含め領有していたという。 地蔵坂を下りて、神楽坂の毘沙門天善國寺で 解散した。 土曜日午後の神楽坂が、こんな雑沓になっているとは、知らなか った。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック