著作や発言より前に、漢詩で内心を吐露2014/11/27 06:40

もう一つの、「友人に贈る」詩。

(20)贈友人      友人に贈る

交人如乗馬、   人に交わるは馬に乗るが如し

御法在吾存。   御する法は吾に在りて存す

得失常無定、   得失は常に定めなし

是非那足論。   是非なんぞ論ずるに足らんや

【訳】(『福澤手帖』148)人とつきあうのは馬に乗るようなもので、どう扱う か、その方策は自分次第である。物事の成功と失敗には一定の決まりなどない のであるから、最初からどういう方法がよいかを考えてもはじまらない。(ただ 自分の思いどおりにやってみるだけだ。)

 この詩も、板垣退助に贈ったと考えられる。 板垣は土佐藩御馬廻、乾正成 の長男。 乗馬の喩えを用いたのは、そのためか。 世論や人のことは気にせ ずに、思い通りにやれと激励している。 福沢には、気に入るとのめり込むと ころがある。 それは福沢の「最初にして最後の政治的恋愛」と言われる朝鮮 問題と類似している。 明治14年になると、福沢は板垣とそりが合わなくな り、板垣も福沢に対してかなり含むところのある発言をしている。

 金文京さんは、自分も漢詩をつくるが、漢詩は、誰にも話せない、心境や悲 しみを表現するのに、散文より書き易い、と言う。 ぼかして象徴的に書くこ とができる。 型があり、遠回しに暗示できる。 間接的に気持を表わせる。  そんなところに漢詩の効用がある。

 福沢の漢詩は、夏目漱石の詩に似ている。 この時代の人は、漢詩をつくる ことが、若い時から身に染みている。 自分のため、心境を述べるためにつく る。 著作や人に語るより前に、漢詩にその内心や心境が書かれている。 自 然主義は、人生を真面目にやり、苦悩する。 福沢は、真面目にやるけれど、 それを笑う。 現在でも、学ぶべきところが多いのではないか。 そう、金文 京さんは、語った。