沖縄の激戦、米軍統治、日本への返還2015/01/22 06:33

 沖縄本島南部は、太平洋戦争の沖縄戦の最後の激戦地となった。 昭和19 (1944)年10月、日本軍は敗色濃厚な太平洋での戦況を受け、沖縄に「南西 諸島方面守備」を目的とする陸軍第32軍を創設した。 その10月10日、那 覇は市街地の約90%を焼失する米軍の猛烈な空爆を受ける。 その前から、本 土疎開が行われたが、8月22日には疎開船の対馬丸が米潜水艦の魚雷攻撃で沈 没する(学童800人を含む1700人が乗っていて、1500人余が犠牲となった) など、被害を受けていた。 米軍は、翌年3月29日に慶良間諸島、4月1日に は沖縄本島に上陸する。 「鉄の雨」「鉄の暴風」と呼ばれた、すさまじい艦砲 射撃と空爆によって、戦没者は20万人といわれ、その半数近くが一般の住民 であった。 第32軍司令官牛島満が自決した6月23日に組織的戦闘は終結、 実質的な戦闘は7月4日に終了した。

 戦争終結後、アメリカ政府は沖縄県は独自の国で、日本に同化された異民族 としてアメリカ軍政下に置いた。 朝鮮戦争の勃発で、「東アジアの要石」最前 線の基地とされ、駐留アメリカ軍は飛躍的に増加する。 東西冷戦の中では、 戦略的な要衝として価値は高まり、広大なアメリカ軍基地が建設される。 当 初、沖縄住民は皆、収容所に入れられて、その間に、もともと住んでいた土地 はアメリカの管理下に置かれ、立ち入りの出来ないまま基地が建設されたため、 故郷へ帰ることができなくなってしまった人も大勢いた。 また、一度は返還 された土地が再び強制的に接収されることもあった。

 昭和27(1952)年4月28日発効のサンフランシスコ平和条約で、潜在的な 日本の主権は認めながら、正式にアメリカ軍の管理下に置かれることになる。  アメリカは琉球政府を創設し、沖縄人から選ばれる行政主席というトップを設 けたが、その上にアメリカ軍の軍人が就く「高等弁務官」がいて、アメリカの 影響は絶大だった。 サンフランシスコ平和条約発効の日を、近年、東京の政 府は「主権回復の日」として祝うが、沖縄では「屈辱の日」とされているのは、 周知の通りである。

 アメリカ兵による事件・事故が頻発し、アメリカ軍統治下のさまざまな圧迫 から脱するため、沖縄の人々は「島ぐるみ闘争」という抵抗運動を起し、日本 復帰をめざして活発な祖国復帰運動を展開する。 1960年代のベトナム戦争に よって、沖縄が最前線基地となり、駐留アメリカ軍は飛躍的に増加する。 爆 撃機が沖縄から直接戦地に向うことに対し、復帰運動は反米・反戦色を強めた。 (私は、この当時のことを池澤夏樹さんの小説『カデナ』(新潮社)で読んだ。)

 佐藤栄作政権は、昭和45(1970)年に予定される安全保障条約の延長と共 に、沖縄県の本土復帰を外交課題にした。 昭和44(1969)年の日米首脳会 談で、ニクソン大統領が沖縄返還を約束した。 屋良朝苗主席や復帰賛成派の 県民は日本復帰と同時に米軍基地の全面返還を望んだが、米軍基地を維持した ままの、「1972年・核抜き・本土並み」返還とされ、琉球政府は沖縄県となり、 昭和47(1972)年5月15日に日本へ復帰した。 日本政府は、返還協定にも とづき、特別支出金として総額3億2千万ドルをアメリカに支払った。 密約 の存在や支出の上乗せについて、論議がある。