喜多八「盃の殿様」の前半2015/01/25 07:08

 黒紋付だが、黄色い裏地の覗く喜多八、私の方も規則正しい不摂生で通して いる、と切り出す。 お大名も、そうそう我儘は利かない。 五つ(午前8時) には江戸城に行った。 やることは決まっているが、座布団なしで、お茶も飲 ませてもらえない。 だから、患っているふりをして、とぼける。 剣術、馬 術などは、「病気である」。 腰元にお手、「病気である」。

 茶坊主の珍斎が、「全盛花競べ六花撰」の錦絵をご覧にいれた。 絵空事であ ろう。 いいえ。 吉原とやらに、傾城を求めに参るぞ。 重役の弥十郎さん が、お止まりを。 殿様は、胸が苦しいと、ふて寝。 重役が相談をして、行 くことになった。 格式があるから、総勢360人、金紋先箱の大行列で素見(ひ やかし)に行く。 さすがに、吉原(なか)はご近習が30人、医者、お留守 居役(この人は普段から遊びが商売だから詳しい、領収書は白紙で持って来い。 「上様」としましたが…。これなら、よい。)、警護の者は脇差に手をかけてい る、嫌な素見があったもので…。

 花魁道中を見る、江戸町一丁目玉屋抱え白鳥、江戸町二丁目丁字屋抱え小紫、 角町厄介屋抱え手古鶴(町と妓楼の名は覚えられず、筆者が勝手に書いた)。 殿 様は京町一丁目扇屋お抱え花扇が気に入った。 ならぬと申すか。 松の位の 太夫職、花も活ければ炭団(タドン)も埋ける、俳句も和歌も詠む。 殿様、 胸が苦しい、頭が痛いをやって、花扇と会うことになる。

 花扇、横を向いていて、相手にしない。 銀の煙管に煙草をつめて、一服つ ける。 まるっきり、殿様は相手にしてくれない。 放置プレイというやつ。  見識がある。 軽く会釈して、目と目が合うと、にっこり笑った。 あふれん ばかりの愛嬌に、殿様、ぶるぶるとなって、一泊いたさんと、と言い出す。 ツ ムリが痛い、が始まって、ご一行お泊りとなる。 扇屋は、相撲協会じゃない けれど、満員御礼。 殿様の病も、全快する。

 弥十郎、裏を返さんと、客の恥辱になると聞く、当家は戦場で敵に後ろを見 せたことのない家柄じゃ、今宵も参るぞ。 殿様は、近頃ないベスト・コンデ ィション。 花扇が余の膝をつねりおった、痣(あざ)になっておる、苦しゅ うない、見せてとらすぞ。 花扇は、今度はいつ来てくんなますか、弥ジさん は恋を知らぬ憎い人と申した。 これは失態である、詫びに参るぞ。 と殿様 は、すっかり助六気取り、毎晩吉原に通い詰めることになる。

松陰、ペリー黒船に密航図る<等々力短信 第1067号 2015.1.25.>2015/01/25 07:09

 大河ドラマ『花燃ゆ』の主人公・杉文は、松陰吉田寅次郎(生誕185年・1830 ~59)の妹だ。 松陰はごく少禄の杉家に生れ、5歳で親戚の吉田家の養子に なった。 吉田家は山鹿流兵学を家学として義務付けられている家だが、家禄 は杉家より少ない五十七石だった。 翌年、養父(実父の弟)が死に、吉田家 は6歳の少年だけになった。 スパルタ教育の叔父玉木文之進や、養父の高弟 たちの家庭教師団に学び、11歳の時、藩主の前で流祖山鹿素行の『武教全書』 (山鹿兵学の入門書)を解説、進講した。

 10日は第180回福澤先生誕生記念会だったが、第125回は昭和35(1960) 年に生誕地大阪で開催され、私は志木高校から派遣してもらった。 大阪商工 会議所会頭の杉道助さんが挨拶をされた。 道助さんの曽祖父は松陰の父常道 (百合之助)、祖父は松陰の兄民治だそうだ。 平成21(2009)年秋、福澤諭 吉協会の旅行で萩へ行き、松陰の誕生地と杉家の墓地、城下町全体と日本海を 見下ろす高台へ行った。 松陰の墓を詣でたが、服部禮(ネ豊)次郎さんが道 助さんの墓にも手を合わせていたので、私も大阪の縁で拝んできた。 道助さ ん、理財科(経済学部)の先輩で、ホッケー部創始者だという。

 松陰は、清がアヘン戦争に破れた状況を知り、佐久間象山にも師事し、欧米 列強の軍事力にはとても対抗できない、まず外国に学ぶべきだと、日米和親条 約を結んで、下田に回航していたペリー艦隊に密航を企てる。 奈良本辰也・ 真田幸隆訳編『吉田松陰―その劇的なる生涯』(角川文庫)の松陰の手記(現代 語訳)を読む。 嘉永7(1854)年3月27日の深夜、弟子の金子重輔と小舟 で、ミシシッピー号に漕ぎ寄せ、旗艦ポーハタン号へ行けと言われる。 風が 強くて、櫂が自由にならず、舟が旗艦のハシゴの下に入って、激しくぶつかる ので、棒で突きのけされそうになる。 松陰はハシゴに飛び渡り、金子も艫(と も)綱を渡せないまま、飛び移る。 小舟に刀と荷物が残された。 通訳ウィ リアムスは、大将(ペリー)も私も、あなた方の申し出を喜んでいるが、和親 条約を結んだから、斬首も覚悟の、その願いを承諾することは難しい、秘密に するから時期を待て、とボートで岸まで届ける。 二人は舟を探したが見つか らず、夜も明けたので、自首して出る。 松陰は、乗り移る際、慌てて舟を失 ったことが、失敗の原因だとした。 持参の手紙など見せて、時間も稼げたは ずだと。 だが3月11日付手紙「別啓」と「投夷書」が残り、この本に現代 語訳もあるのは、なぜなのだろうか。

 岩波文庫『ペルリ提督 日本遠征記』四(土屋喬雄・玉城肇訳)には、艦隊の 士官達は毎日上陸しており、事件前日、両刀を佩び、錦襴の袴を穿いた、慇懃 な洗練さを持つ二人が近づいて来て、秘かに士官の一人の胸に手紙を滑り込ま せたとある。