小田村伊之助、群馬県令・楫取素彦となる2015/02/02 06:36

 小田村伊之助は、文政12(1829)年萩魚棚沖町で長州藩医松島瑞蟠の次男 として生れた。 松島剛蔵は兄。 13歳で、儒者小田村家の養嗣となり、明倫 館に入り、19歳で司典助役兼助講となった。 この年、養父が亡くなり、小田 村家の家督を継ぐ。 22歳の時、大番役として江戸藩邸で勤務し、安積艮斎・ 佐藤一斎の教えを受けた。 嘉永6(1853)年吉田松陰の妹寿(久)と結婚し た。 寿は『花燃ゆ』(優香)にもあったように、高禄200石の内藤一馬との 縁談が、松陰の脱藩で破談になっていた。 伊之助と寿は2児を設け、長男篤 太郎(希家)は小田村家を継ぎ、次男久米次郎は、久坂玄瑞と結婚した杉文に 子が出来なかったので一旦はその養子となるが、久坂が京都で作った子が家督 相続すると、楫取家に戻り、道明と名のる。 楫取道明は台湾の小学校(芝山 巌学堂(しざんがんがくどう))で教師となり、明治29(1896)年の芝山巌事 件で殺害された六氏先生の一人となる。

 小田村伊之助に戻る、結婚の嘉永6(1853)年伊之助も江戸湾警備のため相 模国上宮田に出張、翌年帰国、その後、明倫館都講(塾頭)役兼助講となる。  伊之助は松陰の激論をきちんと受け止めて、相敬愛する間柄で、松下村塾の設 立計画に参与した。 松陰が投獄されると、藩に寛大な処置を願い出たほか、 国事で忙しくなるまで、塾生の教育にも当たった。 松陰が処刑される前に書 いた遺書には、連絡してほしい人物の一番目に、小田村伊之助の名を挙げてい る。

 文久元(1861)年以後は、もっぱら長州藩主に従って江戸・京都・防長の間 を東奔西走した。 吉田松陰が嫌う恭順派の椋梨藤太(むくなしとうた)の派 閥に属していて、藩論が改革派の周布(すふ)政之助の路線になると、一旦野 山獄に投獄されたりしている。 慶應3(1867)年9月、藩命により楫取素彦 (かとりもとひこ)と改名、その冬、長州藩兵の上京に諸隊参謀として出征、 公家諸藩の間を周旋し、鳥羽伏見の戦いで、江戸幕府軍と戦った。

 明治5(1872)年、足柄県参事となり、明治7(1874)年に熊谷県権令、明 治9(1876)年の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令に就任した。 伝統 産業の養蚕・製糸業を奨励し、また教育にも力を入れるなど、草創期の群馬県 政に大きく貢献した。

 明治14(1881)年、妻寿が43歳で死去、明治16(1883)年、久坂玄瑞の 未亡人であった寿と松陰の末妹・文(美和子)と再婚した。 翌年、元老院議 官に転任、その後、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官などを歴任、 明治20(1887)年には男爵になった。 大正元(1912)年、山口県三田尻(現、 防府市)で84歳で死去した。