松陰は、早く生まれすぎた2015/02/04 06:29

昨日2月3日は福沢諭吉の命日だった。 「等々力短信」第1067号「松陰、 ペリー黒船に密航図る」に書いた平成21(2009)年秋の福澤諭吉協会の旅行 は、福沢の出身地中津から萩へと回ったものだった。 萩では、松陰神社と松 下村塾を見学し、短信に書いた城下町全体と日本海を見下ろす高台にある松陰 の誕生地と杉家の墓地へ行った後、もうすぐ日本海という松本川の河口近く、 雁嶋(がんじま)別荘で昼食をした。 食後、服部禮(ネ豊)次郎理事長は、 天保元(1830)年の吉田松陰と天保5(1835)年の福沢諭吉の生れ年の4年の 違いが、両者の運命と日本近代化に対する役割の明暗を分けたと、短いスピー チでこの旅行を見事に総括してくれたのだった。

その時々の状況をよく考えてみないと、読み間違える可能性がある。 吉田 松陰がペリーの黒船に密航図ったのは、嘉永7(1854)年3月27日。 福沢 諭吉が咸臨丸でアメリカに渡ったのは万延元(1860)年だから、5年の違いし かない。 その思いは同じだったろう。 松陰は、早く生まれすぎたのだ。

松陰は、清がアヘン戦争に破れた状況を知り、佐久間象山にも師事し、欧米 列強の軍事力にはとても対抗できない、まず外国に学ぶべきだと考えた。 松 陰は、自らを精にするよりも、先ず相手を知らなければならない兵学の師範で あった。 山鹿流兵学では、巨艦と大砲に、対抗することはできない。 日本 の歴史を学び、単に長州一藩だけでなく、日本という一国を守る兵学そのもの が、松陰の身上となってきていた。 熱血で直情径行な性格の松陰は、やむに やまれず、ペリーの黒船に密航を図った。

列強の圧倒的な軍事力によって、清のように蹂躙され、植民地化される恐れ もある。 日本の独立を守るためには、どうするべきか。 まずは西洋文明に 学び、一日も早く、その域に達しなくてはならない。 松陰も、福沢も、その ように考えたのだ。 福沢は、一日の『時事新報』社説の題に使っただけの「脱 亜論」と、使ったことのない「脱亜入欧」のレッテルを貼られ、アジア侵略論 の創始者と誤解されている。 松陰も、『幽囚録』の一節を引用されることで、 同じようにアジア侵略論のさらなる創始者にされるのであろうか。(つづく)