寿屋サントリーと竹鶴政孝、その独立まで2015/02/24 06:36

 竹鶴政孝自身のノート「実習報告 ポットスチルウヰスキー」をバイブルに、 200万円(現在の10億円を超える)もの資金を投入して、1924(大正13)年 11月ポットスチル二基の蒸留所が完成し、本格的ウイスキー造りが始まったが、 実際にやってみると、乾燥させる大麦と燃料のピートとの距離や、蒸留時の石 炭火力の調整など、不明の点が出た。 竹鶴は、再びスコットランドへ行き、 ヘーゼルバーン蒸留所などで有意義な知識を吸収してきた。

 5年後の1929(昭和4)年4月、寿屋は初の日本製ウイスキー「白札サント リー」を3円50銭で発売した。 ジョニ黒の5円を意識した。 「醒めよ人 よ! 舶来盲信の時代は去れり/酔はずや人 吾に国産 至高の美酒 サント リーウヰスキーはあり!」

 その前年、寿屋は横浜鶴見の日英醸造のビール工場を買い取り、竹鶴は山崎 蒸留所の所長を務めたまま、横浜のビール工場長に任命された。 フルタイム の工場長を務めながら、500キロ離れた山崎蒸留所を運営することは無理な話 で、竹鶴夫妻は鎌倉に居を移した。 諸般の事情はあったが、鳥井信治郎と竹 鶴がともに強固な信念の人であったことが、結局、のちに二人の間に溝をつく ることになったのであろう、と著者は言う。 もはや、竹鶴がいなくとも山崎 蒸留所は大丈夫だという経営判断もあったのだろう。 鳥井自身も、実は優れ たウイスキー・ブレンダーであり、鋭い嗅覚で知られていた。 その長男・吉 太郎は23歳の1931(昭和6)年から、竹鶴のもと、ウイスキー蒸留所で修業 を始め、竹鶴やリタとスコットランドへ蒸留技術の視察旅行もしていたが、 不幸にも1940(昭和15)年に若くして亡くなり、1939(昭和14)年生れの遺 児・信一郎と、その叔父で1919(大正8)年生れの佐治敬三が、現在のサント リーを支えることになる。

 35歳になった竹鶴は、独立して自分のウイスキー事業を始めることを模索し、 三人の協力者が現れる。 その仲介役を果たしたのがリタだったようだ。 山  崎時代、その夫人に英語を教えていた加賀商店(のちの加賀証券)社長加賀正 太郎、イギリスで竹鶴を知ったと思われる統計学の専門家柳沢保恵伯爵、帝塚 山の家の家主でやはり夫人に英語を教えた芝川又四郎。 1933(昭和8)年、 寿屋はオラガビールを生産していた竹鶴工場長の横浜工場を、大日本麦酒傘下 の麦酒共同販売に売却した。 心に染まぬビール工場長を4年近く務めた竹鶴 は、1934(昭和9)年、ついに寿屋を去る。 契約条件の10年が過ぎていた。  6月8日、大日本果汁株式会社の発起人たちが、加賀商店で一堂に会し、事業 計画の趣意書と会社の約款を取り決めた。 資本金は10万円、寿屋の鳥井信 治郎が山崎で本格的ウイスキー造りを始めた時の投資額200万円の20分の1 であった。