羅英均さんの講演「日韓のはざまで」2015/03/18 06:32

 3月6日、三田キャンパスの演説館で、慶應義塾福澤研究センター主催の講 演会を聴いた。 昨年亡くなり、福澤研究センターに資料収集や国際的学術交 流のために寄託された服部禮次郎基金の第一回の事業だという。 羅英均(ナ ヨンギュン)韓国梨花女子大学名誉教授の「日韓のはざまで」、流暢な日本語の 講演だった。 羅英均さんは女性の英文学者で、1929(昭和4)年満州奉天生 れの86歳、会場には奉天の小学校の同級生も来ていたが、小学校卒業後、ご 家族で朝鮮のソウルに戻った。 裕福な家庭で、父羅錫景氏は1910年に日本 に留学後、独立運動に参加し、その妹の羅恵錫氏は朝鮮における洋画家の草分 けで「新しい女」として注目された。 その家族の歴史は、著書『日帝時代わ が家は』(2003年・みすず書房)に描かれているそうだ。

 羅英均さんは、これまで生きて来ての大事件は、第二次世界大戦と朝鮮戦争 だった、と語り始めた。 日韓の歴史は、紀元前3世紀から始まった。 高句 麗、百済、新羅の時代、倭寇が半島沿岸に侵攻した。 4世紀、漢字が朝鮮経 由で、日本に伝わる。 百済人が渡来、日本の皇族と結婚して、定着した。 8 世紀、関係が悪くなり、新羅との戦争が起る。 そんな中でも、日韓の貿易は 続いていた。 17世紀、豊臣秀吉の侵攻があり、徳川は平和を維持する政策を 採った。 幕末、朝鮮は鎖国していたが、1875(明治8)年通商条約を結んで、 釜山、元山などを開港した。 中国、日本、ロシアの三国が、半島をとろうと する。 日清、日露の戦争を経て、1910(明治43)年日韓合併、日本の植民 地となり、1945(昭和20)年まで36年間続いた。 1965年まで国交を断絶 していたが、日韓条約が結ばれた。 このように日韓の関係は、二千年の間、 良くなったり、悪くなったりする歴史を、続けてきた。

 20世紀を生きてきた私たちの歴史から、二つのことを語りたい。

(1)三一(さんいち)運動。 1919(大正8)年3月1日から始まった朝 鮮半島全体の反日独立運動。 知識人33人が韓国独立宣言書を発表、ソウル のパゴダ公園に学生を中心に3千人が集まり、デモ行進をしたのをきっかけに、 運動は朝鮮全土に広がり、60万人が参加、3か月続いた。 日本総督府は、懐 柔的政策をとった。 私事だが、父は独立宣言書3千枚を持って、満州の牧師 に伝えに行き、帰りに逮捕、投獄された。 叔母は、画家だったが、女学生デ モの隊列の先頭に立って行進し、逮捕されて6か月投獄された。

(2)1965年6月22日の日韓基本条約の締結。 締結とともに全国デモで、 学生たちを中心に反対した。 日本からの経済的援助に反対したのではなく、 その見返りに賠償請求権を放棄したことに反対、反発した。 多くのアジアの 国でも反発が起きた。 当時、梨花女子大学で教えていたが、学生達はそれま でやったことのないデモをした。 朴正煕時代で、武装警官と学生達が校門の 前で対峙した。 教職員が間に立って、朝から夕方6時まで、11月の寒い時期 にそういう状態が続き、総長が学生達を大講堂へ入れ、朝になって帰した。 だ が条約は成立し、韓国はそのおかげで経済発展した。(つづく)