米朝さんと長男・桂米団治2015/03/27 06:46

 桂米朝さんは伊丹市の病院で19日、昼間はテレビを見ていたが、夕方から 血圧が下がり始め、家族や弟子に見守られて、安らかに息を引きとったという。  記者会見をした長男の桂米団治は、「本当にあっという間でした。全然苦しむこ となく、眠るようにあちらに逝かれました。大往生でした」と語り、弟子の桂 ざこばは、泣かないつもりだと言いながら、「こない上手になくなるというのは ……」と、声をつまらせ、「お疲れさんでした!」と泣いた。

 米朝さんは『落語と私』(ポプラ社・昭和50(1975)年)の最後に、むかし 師匠の米団治に言われたという言葉を書いている。  「芸人は、米一粒、釘一本もようつくらんくせに、酒が良(え)えの悪いの と言うて、好きな芸やって一生を送るもんやさかいに、むさぼってはいかん。 ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に、世間へおか えしの途(みち)はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで」

 ねうちは世間が「人間国宝」ときめ、末路は「哀れ」でなく「大往生」とな ったのは、めでたいというほかない。

 私が上方の落語に違和感を持たなくなったのは、国立小劇場の落語研究会で 米朝さんを聴いたおかげであった。 落語研究会で米朝さんは、3月14日に第 1回のあった昭和43(1968)年11月13日の第9回に「崇徳院」を演ったの を皮切りに、昭和45年4月「はてなの茶碗」、昭和46年1月「百年目」5月 「猫の忠信」12月「どうらんの幸助」、昭和47年6月「算段の平兵衛」、昭和 48年5月「軒付け」、昭和49年2月「愛宕山」7月「千両みかん」、昭和50 年3月「骨つり」10月「たちぎれ線香」、昭和52年5月「住吉駕籠」、昭和54 年3月「一文笛」、昭和55年4月「天狗裁き」、昭和56年8月「どうらんの幸 助」、昭和59年3月「京の茶漬」9月「壺算」、昭和60年9月「住吉駕籠」、 昭和61年3月「らくだ」、昭和62年2月「不動坊」9月「千両みかん」、昭和 63年8月「質屋蔵」、平成元年6月「たちぎれ線香」、平成2年5月「はてな の茶碗」、平成3年5月「三枚起請」、平成5年12月「古手買い」を演り、そ してだいぶ間があって平成14年2月28日の第404回の「厄はらい」が最後の 出演だったようだ。 その間、米朝さんの門下や影響を受けた、桂文枝、桂枝 雀、林家染丸、桂吉朝、桂文我らが、上方から来演して、一時退潮気味だった 東京の落語界に、上方の実力を見せつけ、落語研究会を支えたのだった。 

 平成17(2005)年11月、後に(平成20(2008)年10月)米団治を襲名す る桂小米朝が初めて落語研究会に出て、「くっしゃみ講釈」をかけた。 私はこ う書いていた。 自ら又の名を桂七光(ななひかり)、サラブレッドと名乗り、 落語家になるといったら、いつも怒っているか、泣いているかのざこばが「そ れはいい、人生バクチや」といい、枝雀が「小米朝」と命名してくれた、「お父 さんのファンです、サイン下さいお父さんの」、と言われ続けて20年、札幌で は「子米朝」と書かれ、自ら「あほぼん丸出し」といい、人間国宝の長男は本 当に大変で、皇太子の気持がよくわかると述べた。

 いま、米団治が落語研究会に来るのは、枝雀が来た時と同じような、私の楽 しみになっている。

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